一部城域の水堀が埋められて原形が失くなってますが、過去の遺構の雰囲気が残っていて、想像以上に良かったです。 ・駐車場……「水口中央公民館」の裏手に広い駐車場が利用可能、現在は遺構ありませんが「水口城二の丸跡」に駐車🚙 ・徒歩……水口城址の「御成橋」まで約3分、御成橋の奥はグランドで行き止まり😰 ・築城……1634年/寛永11年、作事奉行/小堀遠州(大名であり名作庭家、現二条城の庭も作庭)、3代将軍/徳川家光の上洛のために新築、別称「水口御茶屋」、結局この1回しか使用されず、何と1回のため😲 ・構造……本丸と二の丸(本丸北側)の二郭の縄張、本丸だけ水堀で囲われ、二の丸は土塀や柵などで境界、本丸は正方形で東西南北の四隅に平櫓の御矢倉が建っていたんですね🤔 ・現在……大手外枡形虎口部分と乾(北西)櫓台下だけ石垣が現存、資料館は廃城令時に民間に売却された平櫓の乾櫓を2階造りに改築移設、雰囲気を醸し出しています。 水堀が約9割残っていて東~南~西~北の駐車場まで周囲をぐるっと歩くと大きさなど実感、中々、面白いので散策してみて下さい🚶城の石垣を近江鉄道の敷設工事に使用したとは時代ですね。 ・江戸時代その後……~1682年まで「番城」で幕府管理、1682年に2万石で加藤嘉明の孫/加藤明友~1695年に鳥居元忠の子孫/鳥居忠英(名君/2万5千石)~1712年に加藤明友の孫/加藤嘉矩(譜代格に格上げ/3万)入城し明治維新まで加藤家9代が続きました。 本丸は将軍家から預かっていると言う事で明治維新まで使用されなかったそうです、これも歴史ですね❗️
・お願い……乾櫓台下の石垣に草木増殖、将来的に石垣が孕んで倒壊の可能性があるので、何とか今のうちに草木...
Read more▼水口城 -...
Read more水口城は江戸時代は水口藩の藩庁が置かれていた。元々、水口には五奉行の長束正家の居城水口岡山城があったのだが、長束正家が関ケ原の戦いで西軍に着いたため廃城となった。 水口は幕府直轄地となったが、徳川家光の上洛の際に宿所とするため水口城は築かれた。築城にあたり、水口岡山城の資材が使用されたという。 以降、江戸時代の大半で城主は加藤氏が務めた(2〜2.5万石)が明治維新で廃城となった。
現在、水口城の本丸は水口高校のグラウンドとなり城の面影は皆無である。かつての出丸部分に土塀、城門、二層櫓が復元され多少城らしさを感じさせている。 現存遺構は堀と部分的に石垣が残っている。石垣は出丸部分及び乾櫓のみ残されているが大部分は撤去されている。 模擬復元された二層櫓は現在資料館となっている(有料100円)
水口城はわざわざ見にくるほどの城だとは思わないが、水口岡山城など甲賀地域には他に興味深い城跡がいくつかあるので、それらと組み合わせて...
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