沖縄の最北端、辺戸岬にある石碑ですね。 その場所に立つと海の向こうに、祖国日本が見えるのです。鹿児島県の与論島のことです。
1972年5月15日以前は沖縄県は、アメリカ合衆国でした、お金も米ドルを使っており、車のハンドルも左にあって、車は道路の右側を走っていました。 沖縄から出て、他の都道府県へ行く時は、パスポートのようなものが必要だったと聞いています。その他諸々あります。
1958年に甲子園の土が、外国の土とみなされ植物検疫法に引っかかっり、取り上げられ海に廃棄される事件がありました。 後日、親切な方が甲子園の小石を届けて下さり、それが、首里高校の甲子園出場記念碑に埋め込まれているそうです。また、甲子園の土で作った皿なども送られてきたそうです。 甲子園野球大会は、今年、2018年に100回記念をむかえました。ちょうど60年前の出来事になります。
沖縄で起こった日本祖国への復帰運動は、島ぐるみで長期間に及んだと聞いています。 その頃の私はまだ幼くて、親に連れられて集会やデモに参加した記憶がかすかにあるぐらい… 中身も理解できずに、何か楽しいイベントかピクニック気分でした。そして、それが実って小学生の時、日本祖国へ復帰したのです。その時は、お金がドルから円に変わって、友人と大騒ぎしました。その程度の認識しかありませんでした。学校の先生のお話も他人事で、祖国復帰の本当の意味を知ったのはずっと後です。
親の世代が、怒りの声をあげて抗議してくれなければ、沖縄はいまだにアメリカ合衆国のままで、不当なことが続いていたのでは…
辺戸岬の祖国復帰闘争の石碑、その場所に立ち復帰前の日本祖国だった鹿児島県を眺めていると、先代の人々の強い思い、子孫の幸せを願う祈り、叫び、怒りなどが迫ってきて、心が熱くなるのです。私にとっては感謝の気持ち、歴史の重みを感じる大切な場所なのです。
長文になり失礼しました。 三日前、沖縄県知事翁長雄志氏が亡くなられました。次は私たちの世代が声をあげなければならないと、責任を感じています。
ネット環境の整った今の状況は、天から与えられた大きなチャンス...
Read more長くみれば1950年代からはじまった占領下の沖縄での日本復帰運動を記念したシンボルです。沖縄返還までの日々を「復帰闘争」として呼び、古き記憶にしないよう建立されています。「祖国」はあくまで日本です。この碑がなぜ県最北部に置かれているのか分かりませんが、未だに多くの人に知られていないのは残念です。 沖縄が日本のために戦ったのは、何も戦争中だけではない。沖縄の占領は、日本の占領でもありました。当時の沖縄の歴史について回想するためにも、この場所をさらなる平和学習に役立て...
Read moreここは沖縄が日本に復帰する前には、一番日本に近い場所でした。日本の最南端与論島まで約22Km。 すぐ近くですが、1972年に復帰するまでは北緯27度が国境だったのです。...
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