昨年末放映のブラタモリ「東海道57次」を観て、往事の淀城のスケール感を知り、興味がわき、令和7年2月の平日(月曜日)に訪問しました。自分が住んでいる枚方市も京街道とし当街道の一部となっており以前から関心があったのですが、淀川や巨椋池など地形が江戸時代以降大きく改変していたこともあり、どうせならと近世当時の風景を思い浮かべながら辿ることを思いたちまして、移動手段は八幡市にある三川合流地点の公園駐車場に車を駐車させて、そこから徒歩で淀城まで向かいました。江戸時代当時とは異なり現在の木津川・宇治川・桂川の三川合流地点は明治以降の河川改修により現在の位置に付け替わっていますが、江戸時代では三川合流地点は淀城付近にありましたので、現在の公園駐車場の位置は、江戸時代当時では淀城付近で合流した三川(つまり淀川)の左岸側あたりの陸上になろうかと想像します。そのため、現在は、公園駐車場から淀城へ向かうためには宇治川の橋をわたる必要がありますが、江戸時代当時であれば当時の淀川左岸側を陸地伝いに公園駐車場の位置(「石清水八幡宮付近」といった方が分かりやすいかもしれません)から淀城まで移動が出来たのではないかと想像しますので、当時の旅人の移動もこうであったのだろうかと勝手な想像を巡らせながら歩を進めました。京都市美豆町から昔の堤防跡(おそらく当時の淀川左岸側)と思われる地形の高まりに出会い、そのまま美豆町の町並みを東方面へ抜けていきますと今後は進行方向の直角に沿って当時の木津川左岸の堤防跡と思われます地形を確認できす。左岸側の堤防跡をくだり当時の川が流れている範囲を横断する形で街道は続き、次に右岸側の地形の起伏を確認できす。因みに道中はサイト「今昔マップ」の活用させていただきまして明治時代の測量地図を辿りながら移動しました。当サイトは史跡巡りの際に個人的によく利用させて頂いており大変重宝させていただいております。木津川右岸跡を過ぎ、淀の町を抜けていきますといよいよ淀城へと到着です。淀城に対する個人的なイメージとしては、残念ながらあまりぱっとしないのが正直な感想で、最寄りの京阪電車淀駅も現在は高架化と同時にきれいに改装されいますが、淀城とは駅反対側の京都競馬場の知名度やイベントなどの賑わい関心が向けられ、対する淀城は、あくまでも個人的な印象ですが、駅前のちょっとした公園のなかに石垣と堀が見える程度の規模と印象で、昔はこことに城でもあったのかと、ふと思う程度でそれ以上の関心が進むこともありませんでした。 入り口は公園なのか神社の境内なのか不思議な雰囲気をまず感じ、お城の説明書きや往事の絵図を拝観。絵図には現在位置を示しており分かりやすかったです。また当時の木津川や宇治川と桂川の合流点の位置、淀川からの水を城内に引き込むため直径九間(約8m)の水車が2つ存在していたことなどよく分かりました。ただ、明治以降の河川の付け替えや淀城にまつわる歴史に関する多少なりでも予備知識のない方には、絵図だけ観ても深い関心を示すまでにはならないように想像します。わたしも、このときスマホに撮影していたブラタモリのテレビ画像と公園の絵図とを見比べて、この位置はどうなんだろうかと悩みながら公園の絵図をまじまじと見ていたのを気にして頂いたのか、公園で清掃活動をされていた年配の方に運良く声を掛けていただき、その方から説明を頂いたことで大変助かりました。声をかけて頂いた方はボランティアとしても淀城の調査にも携わっているとのお話でしたが、この方の説明では、 現在の石垣は東面のみ築城当時の物で、他は昭和の時代に復元された石垣とのこと。淀城築城当時の石垣は、伏見城の石垣を転用したとのこと。淀城の絵図から大量の石材が利用されていたことが想像できるが、伏見城は豊臣秀吉以降の徳川家康の時代に拡張されており伏見城の規模は相当なものであったとのこと。伏見城跡は現在明治天皇陵になっており中には入れないが現在も石垣は残っているとのこと。淀城は1700年代の落雷により天守は焼失したとのこと。 淀城の天守は元々の計画は伏見城の天守を持ってくる予定であったが、実際は二条城の天守を移設した。二条の天守の大きさは伏見城の天守よりも小さく、淀城では伏見城の規模を想定して基礎部をつくっていたが小さい天守となったため結果として基礎部に隙間ができることになったので姫路城から櫓を移設して城をつくったとのこと。因みに淀城の天守は、よく聞かれるが大和郡山城の天守から移設したものではないとのこと。 また、現在の淀城跡には神社は2つあり、一つは別の場所からこの地に移された神社。もう一つは稲葉氏の家祖で春日局の夫である「稲葉正成」が御祭神として祀られる神社とのこと。 鳥羽伏見の戦いに際して、淀城の城主であった稲葉氏は幕府の老中までつとめた人物で幕府側の人であったが、当時城をあずかっていた国家老側の判断で戦いで逃走してきた幕府軍を城に入れず、その事実を知ったこの時は江戸にいた藩主はさぞかし驚いたであろうと想像するのとのこと。国家老をつとめた田辺氏は明治以降は巨椋池など周辺の開拓に活躍されたとのこと。ちなみ絵図の寄贈者である稲葉氏は直径の子孫であり、名前に「正」が入っているとのこと。 昔あった水車の跡には、淀川の付け替え後現在は府道となっている場所に石碑がたっているとのこと。現在水車は存在しないが実物よりも小ぶりにした物を淀駅の前に設置しているとのこと。 などなど、ご説明とともに私の質問や疑問点についても大変親切にご説明をして頂きました。このあと、教えていただいた水車があった場所と淀駅前の復元された水車を観てきましたが、ボランティアの方から説明がなければ間違いなく見逃すところでした。今回の短い体験だけでもまちづくりの面からまだまだポテンシャルの高い淀城跡の存在を感じることができたと思います。ボランティアの方のますますの活躍や説明の充実化(VRなどで当時の城や水車、町並みがみえるといいなと思います)など最近いろんな観光地でも取り組まれていますが見える化はいいなと思いました。個人的にも今回関心を寄せた切欠もブラタモリでの放映でした。 淀城跡をでた後は、車をとめていた公園駐車場が17時で閉まる関係もあって、淀駅からは電車を使って中書島へと向かい、こちらもブラタモリで昨年放映されていました和菓子屋さんで羊羹を買ってから(実際は月曜日は不定日でお休みでしたので、丹波橋駅近くこちらも数年前にブラタモリに出演さていました本家さんの店の方はこの日あいてましたのでこちらで羊羹を購入させて頂きました)、丹波橋駅から淀駅まで電車で戻り(公園駐車場の最寄り駅は石清水八幡宮駅でしたが、出来るだけ歩くことにしました)淀駅から歩いて、17時前に公園駐車場に到着。公園駐車場を徒歩で出発したのが、12時頃でしたので、約5時間ほど掛かったことになり...
Read more⭐️1623年(元和9年)、2代将軍/徳川秀忠の命にて久松松平家/松平定綱が淀藩に35000石で入封、同時期の伏見城廃城に伴い資機材転用し「淀城」築城、天守は二条城の天守が移築建造されたとの伝承、帝都京都のある山城国では唯一の大名家の居城、江戸時代を通じ久松松平家~永井家~石川家~戸田家~大給松平家~稲葉家と譜代大名が歴代藩主を勤めた🏯
⭐️幕末の有名な話…1868年戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた旧幕府軍は幕府老中/稲葉正邦が藩主の淀城に入城を試みるも、開門されず撤収、藩主/稲葉正邦は江戸城に在城し、淀城は城代が預かり、朝敵と成っていた旧幕府軍を入城させることを拒否、歴史は賛否両論🤔
⭐️江戸時代の淀城vs安土桃山時代の淀城、名前は同じでも全く違う城😲 安土桃山時代に豊臣秀吉が側室/茶々の産所として築城したのが「淀城」=古淀城、現「淀城跡」の北へ500mに今は跡形なし、1595年の秀次事件に関連し廃城⁉️
⭐️思いの外、本丸の石垣が残っていて想像以上に史跡としての景観あり、堀を含めて周辺をもう少し整備されたら良いなと思います、堀周りも遊歩道とかにしてもらえ...
Read more二つの淀城!?
豊臣秀吉が茶々(淀君)の産所として築かせた淀城(淀古城) 江戸時代に徳川によって作られた新しい淀城とを「分類」するために、 同じ淀城でも古い城は「淀古城」と呼ぶらしい 淀古城の遺構は残念ながらほとんど残されていません
伏見城が廃城となった後に、 1623年から築城開始したのが「淀城」 ここは南京錠が空いていて中にはいれました 淀藩の廃藩に伴い、早くから淀城は廃城となった
巨椋池の干拓により
地形が大きくかわり
本丸の一部を除いてすべて破壊されたり
本丸南東部を京阪電気鉄道が貫通するに及び、淀城の消滅は必至とり
このころになってようやく保存運動が高まり、
本丸周辺の整備が進み、開発の手を免れた石垣及び堀が保存されている
写真では分かりづらいですが 堀がありました 光っているのが水面 立派なお城...
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