上泉信綱(城の主)は全国各地の剣豪を訪ねて、求められるまま新陰流の秘奥を披露しました。伊勢国(現在の三重県北中部)の国主でありながら「塚原卜伝」から「一之太刀」の印可(力量を得た者に師が与える証明)を与えられた「北畠具教」、「宝蔵院流槍術」の開祖「覚禅坊胤栄」など。しかし、誰もが上泉信綱の剣技を見ると、あまりのレベルの違いに立ち会うことすらできなかったと言います。数少ない立ち会いのひとつが、大和国(現在の奈良県)で武芸者として知られていた「柳生宗厳」です。結果は散々。向かい合ってすぐ「その構えなら刀を取りますぞ」と上泉信綱が告げると、次の瞬間には本当に柳生宗厳の手から刀が奪い取られていたのです。これが世に言う「無刀取り」。あまりの実力差に感服した柳生宗厳は、ただちに門下へ加わりました。上泉信綱は全国各地の剣豪を訪ねて、求められるまま新陰流の秘奥を披露しました。伊勢国(現在の三重県北中部)の国主でありながら「塚原卜伝」から「一之太刀」の印可を力量を得た者に師が与える証明を与えられた「北畠具教」、「宝蔵院流槍術」の開祖「覚禅坊胤栄」など。しかし、誰もが上泉信綱の剣技を見ると、あまりのレベルの違いに立ち会うことすらできなかったと言います。数少ない立ち会いのひとつが、大和国(現在の奈良県)で武芸者として知られていた「柳生宗厳」です。結果は散々。向かい合ってすぐ「その構えなら刀を取りますぞ」と上泉信綱が告げると、次の瞬間には本当に柳生宗厳の手から刀が奪い取られていたのです。これが世に言う「無刀取り」。あまりの実力差に感服した柳生宗厳は、ただちに門下へ加わりました。行き違い等々の切はご容赦下さい...
Read more「新陰流」の祖、上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が永正五年(1508年)に生まれ居城していた場所と伝えられています。信綱は日本剣道史上の最高峰として、また「剣聖」ともうたわれその名は広く知られています。新陰流の理と技は柳生但馬守宗厳(やぎゅうたじまのかみむねとし)(石舟斎せきしゅうさい)らに伝えられ現在も脈々と受け継がれています。 城域は住宅が建てられ、畑になっている場所が殆どですが、土地の段差から本丸周囲や二の丸の空堀跡をうかがい知ることができます。また飢饉に備えた郷蔵が本丸跡にあり、上泉町自治会館もあって、地域の要の場所として500年以上も機能している場所であることに感銘しました。城址は北と南、東を川で囲まれた合流点にあり、天然の水堀を使った合理的な立地...
Read more上泉城は剣聖と称された上泉伊勢守信綱の出生地とされ、上泉氏の居城でした。大胡城の支城として築かれ、信綱は箕輪城主・長野氏に仕えていましたが、武田信玄の侵攻で長野氏が滅ぶと武田氏に臣従し、「信玄」から一字を与えられ「信綱」と改名。その後、将軍・足利義輝にも剣術を伝えました。遺構はほとんど残っていませんが、剣聖上泉伊勢守の顕彰碑と銅像が建っています。ボタンを押すと自治会館のスピーカーから「剣聖上泉伊勢守の歌」...
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