足尾銅山は、1610年、(慶長15年)から〔一時休山〕1973年(昭和48年)閉山まで、360年間⛏️⚒️🔨🧺🧺🛤️採掘された。1877年(明治10年)、古川市兵衛の経営に移り、本山、有木抗口から着手し、通洞抗口、小滝抗口と、規模を拡大し、銅山最盛期には、人口3800人の銅山の町へと、発展していった。のちに〔銅山王〕とよばれることとなる古川市兵衛は、天保3年(1832)、京都・岡崎武良で木村長右衛門・みよの次男として生まれた。生家は大和屋という酒屋で、幼名は巳之助と称した。市兵衛が生まれたころには、生家は没落しており、豆腐の行商をするなど貧乏をしていたという。27歳の時、京都の豪商・小野組で番頭をつとめていた古川太郎左衛門の養子になって古川市兵衛を名乗る。小野組では、市兵衛は生糸の輸出、米殻や蚕卵紙の取引などで商才を発揮して多大の貢献をする。明治になってからは、当時「鉱山屋」と知られていた岡田平蔵と組み、明治5年(1872)ごろから、官許を得て東北の阿仁・院内・尾去沢などの鉱山経営に参加、銅山のおもしろさを実感していた。明治7年には岡田が没したので、尾去沢を除く阿仁・院内の経営は小野組が引継ぎこととなり、市兵衛はその責任者となったのである。ところが、同年、明治政府の為替正策の変更によって、小野組は一朝にして破綻瓦解する。ちなみに、同業者の三井組は、番頭・三野村利左衛門が井上馨など政府人脈から情報を得ており、この危機を逃れることができた。市兵衛も、生糸の海外取引を通じて、大蔵省租税頭であった陸奥宗光(1844~97)や同じく租税正の渋沢栄一(1840~1931)と知己になり、肝胆相照らす仲となっていた。彼は主家を襲ったこの事件で、事業の安定には政府要人との人脈づくりが肝要であることを痛感したというが、陸奥・渋沢との関係は、のちに古河グループの形成に大きな影響を与えることとなる。小野組倒産後の事業整理のなかで、市兵衛は、私財をなげうって、渋沢が創始したばかりの第一銀行が共倒れとなることを防いだ。これによって、第一銀行は窮地を脱して発展を続け、両者の関係はこれによって昵墾のものとなった。倒産の結果、阿仁、院内両鉱山は政府に没収されたが、市兵衛は鉱山経営をあきらめきれず、第一銀行の援助と相馬家家令・志賀直道の融資によって新潟県草倉鉱山の払い下げを受ける古河名義でこの草倉鉱山の操業を開始したのが明治8年11月で、それが成功して、莫大な利益をあげることができた。古河財閥の興りが明治8年とされる所以である。市兵衛は「運・鈍・根」を身上として、持ち前の信念と強運で古河財閥の創始者として日本経済に名を残すこととなる。この基礎をつくったのが、この草倉鉱山につぐ、明治10年の足尾銅山への進出であった。 「足尾千軒」の繁栄と衰退。 足尾銅山は、栃木県西部の渡良瀬川上流に位置し、江戸幕府成立後の慶長15年(1610)に、足尾の農民、治部(じぶ)と内蔵(くら)によって、発見された。当時の領主は日光座禅院座主であり、許可を受けて採掘と精錬が行われ、翌16年には、老中で前橋藩主の酒井雅楽頭を通じて、試験的に製造した問吹銅を幕府に献上した。ちょうど、のちに第三代将軍となる家光の着袴式が行われる年にあたったことから、めでたがれ、幕府が直接支配する直領鉱山とされたのである。以後の60~70年間が、足尾銅山の全盛期であった。毎年の生産高は1300~1500トンにものぼり、江戸城・芝増上寺・上野東照宮や日光東照宮の瓦はすべて足尾の銅でつくられたという。幕府は銅の輸送のために、特に足尾から利根川の前島河岸まで銅山街道(あかがね街道)を設け、そこから江戸の御用銅蔵まで舟で運ばれた。延宝4年(1676)からは長崎・出島を通じてオランダや中国に輸出され、重要な外貨を稼いでいる。そのころの足尾は「足尾千軒」とよばれるほどの賑わいを見みせ、吹床12軒銅山師400人を数えた。幕府の収益も大きく、開業から元禄期(1688~1704)までのおよそ80年間で総額30万両あまりあげたという。しかし一方で元禄期に入ると、乱堀のためその生産量は大きく減少する。さらに、銅をつくるための燃料や還元剤に大量の薪や木炭を必要としたから、近隣の山は荒れ、禿げ山となり、その結果発生した洪水によって足尾の町は大きな被害をこうむり、銅の採掘も打撃を受けたこのため、銅山師たちはたびたび幕府に山元救済を訴えた。たとえば、寛保元年(1741)には鋳銭製造の許可を申請して、翌年から5ヵ年間、寛永通宝を鋳造している。その枚数は二億あまりといわれ、背面に足尾の「足」字が鋳印されていたため「足字銭」と称されて、江戸・関東地区を中心に流通した。鋳銭が一般に「お足」とよばれるのは、この足の鋳印にあるという設も残っている。その後足尾の衰退は進み、文化文政期(1804~30)の初めには生産がゼロにちかくり、弘化元年(1844)ごろには救山状態に追い込まれてしまった。 江戸期の採堀から製錬まで。 足尾銅山の鉱床は約1500万~1000万年前ごろにできたものといわれ、母岩(鉱脈を取り巻く岩盤)は流紋岩で巨大な漏斗状をしている。「備前楯山」と呼ばれる高さ約1300メートル、東西南北約4000メートル四方もある母岩の無数の割れ目に、鉱脈として銅鉱石が火山活動によって沈澱したものである。江戸時代の開業から昭和48年(1973)の閉山まで、約400年にわたって採堀された銅の総量は金属換算で約82万トンにのぼり、日本一の銅山であった。ちなみに、第二位の愛媛県別子銅山は約70万トン、第三位の茨城県日立銅山は約60万トンである。銅を製造するための主な鉱石原料は黄銅黄鉱であり、鉱石中の成分は銅と鉄と硫黄である。鉱石を掘り出してから、鉄と硫黄を製錬により分離して...
Read more銅山観光に行く前に歴史を見ていったほうがいいだろうと思い立ち寄りました。ちょっと郷土資料館な雰囲気が漂います。実は以前はスケート場だったとのことで懐かしさが込み上げてきます。一度だけ利用したことがあったんですよね。 受付で400円を払うと施設の方から概要を簡単に説明していただけます。質問のある方にはそれに輪をかけて時間を割いてくださっていました。非常に蒸し暑い日だったので半分涼みに来たのですがなんとエアコンなし。昔はそれで良かったのかもしれませんが見学するのには忍耐が伴います。 中は創業者と鉱山の歴史が主で鉱毒についてはさらっとした説明でした。そちらが詳しいのは環境学習センターかもしれません。 歴史館二階の半分はトロッコ館になっていてわたらせ渓谷鐵道に関するものや模型の展示などがありました。鉄ではないのでよくわからず流し見。係の方が私の見た後をチェックして回っているのが気になりました。いたずらしそうに見えたのかな。人が少ない中だったので疑われ感が痛い。 暑さに耐えきれず外に出るとトロッコ乗車を熱心に勧めていただいたのでお言葉に甘えます。なんと入館料を支払えば無料なんです。旧スケートリンク外周をたっぷり二周でとても楽しめました。その後も別の車両の運転体験までさせてもらえます。私は怖いのでジュニア用のミニ機関車にしました。予想以上に愉しくて笑いが止まりません。土日祝にのみ運用。銅山観光に比べ人が少なすぎてもったいないと思いました。お子様は大喜び間違いなしです。歴史館の移転が近々あるそうでトロッコはこのまま残りそうですがどうなのでしょう。聞...
Read more足尾銅山がテーマパークとするならば、こちらの施設は古河凄いだろう系博物館と言ったところです。
戦争等と同じく、鉱毒について教科書では「これが出来たから、これだけ痛い思いをしました。絶対繰り返してはいけません」と言うことだけが教育されます。 しかし、ここはそれ以外にも「このような経緯でこの鉱山が発展し、このような営みがありました。それと共に鉱毒が発生したのでこのような中和解毒方法をこのようにやりました。それは今でも続いています。 その他に、今では掘削機国内1のメーカーとなり、トンネル工事に欠かせません。」等、それに付随して発展した技術等も古河さんの息がかかっているだけあって多く説明されて居るのが魅力の博物館だと思います。
また、その他にも何と言っても2階や広場にある「あしおトロッコ館」の鉄道資料(主に鉱山鉄道)が充実しているのでとても為になるし楽しいです。 特に「ナベトロ」という、物を半円状の器に入れて運び、最後にひっくり返して中身を落とす貨車の展示が凄まじく多いのが魅力ですが、万人受けはしにくいかもしれません。
元向ヶ丘遊園の客車が走ったり、日立セメント工場で廃止された索道の一部が手押し出来たり、腕木式信号機のてこ操作も出来るのも魅力です。
この全てが400円で学べ、遊べるなんて申し訳ないくら...
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