坂東観音霊場第5番飯泉山勝福寺(飯泉観音さま)にお参りします。小田原駅で列車を降り、バス乗り場で富士急バス新松田駅行きに乗車します。乗客は2~3人しかいません。飯泉観音前で下車します。酒匂川沿いの寂しげな感じの場所です。ゲームセンターの横を抜け、工事中の道を酒匂川沿いに北に向かいます。以前小田原の近くに住んでいたのですが、その頃は飯泉の観音さまと言えば年の瀬のダルマ市ぐらいしか思い浮かばず、小田原を離れてからこうして飯泉観音さまに詣でると言うのも不思議な縁を感じます。人気のない道を歩いていると酒匂川から吹き付ける早春の風が身に染みます。やがて「坂東五番 飯泉山勝福寺」と彫られた石柱と時代を経た大きな仁王門が見えてきました。この仁王尊は曽我兄弟の仇討ちの際、兄弟の願掛けを受け仇討ちを成就させた仁王尊とされています。曽我兄弟の仇討ちはとても有名で「赤穂浪士の討ち入り」「鍵屋の辻の決闘」と共に日本三大仇討ちとされ古来武士にとっての仇討ちの模範とされているのですが、その割に説明の着かないことがあり、特に兄弟が仇の工藤 祐経(くどうすけつね)を討ち果たした後、源頼朝の宿所を襲おうとしているのですが、ただの仇討ちなら源頼朝まで襲う必要は全然ないわけで、どうも鎌倉幕府の内部抗争や陰謀の臭いがすると思います。また曽我兄弟の墓と言われるものは兄弟が育った小田原市の曽我や箱根の芦之湯の他に巻狩りが行われた富士宮市の朝霧高原にも存在します。歴史と言うのは調べれば調べる程疑問が増える不思議なものだと思います。仁王門をくぐると広い境内の正面に観音堂が見えます。観音堂の手前の巨大なイチョウは樹齢およそ千年で県指定の天然記念物。まず水屋で手水を取ろうとすると水鉢が船首に龍頭、船尾に十一面観音菩薩像を配した舟形の珍しいもので見惚れてしまいました。観音堂に進みます。ご本尊は香木で造られた高さ二尺八寸(約85㎝)の十一面観音さまですが秘仏とされ33年ごとのご開帳の年にしか拝見できません。次は2047年です。観音堂で般若心経を拝読させて頂きます。他にお詣りの方はいません。納経所で納経印を頂きます。観音堂脇の二宮金次郎の像が目を引きます。見慣れた、薪を背負って歩き読書する姿ではなく質素な野良着をまとい膝を突いて一心に祈る姿です。この寺に二宮金次郎の像があるのは、金次郎の産まれたのがこの寺の近くの栢山村であり、また金次郎18歳のおり(一説では14 歳)飯泉観音さまに参詣した際、旅の僧が観音経を訓読(例えば「世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音」のように漢音でなく「世尊は妙相具えたまえり、我れ今、重ねて彼を問いたてまつる。仏子何の因縁ありてか、名づけて観世音となすや」のように和語で詠む)するのを聞き、いた...
Read moreIf you come to Odawara, it is a historical temple that you should visit. Dharma dolls festival nights in December and January are crowded, but usually a quiet temple. There is a big ginkgo tree in the precincts, and the season of yellow leaves is...
Read more坂東三十三ヵ所観音霊場の参拝でお伺いしました。 真言宗東寺派のお寺で由緒ある古刹で飯泉山勝福寺といい、霊場第五番札所になります。 勝福寺は格式が高いお寺で本坊の肌色の屏に、横に白い五本の線が入っていますがお寺の格式(一番高い格式)を表す印になります。 御本尊は十一面観世音菩薩で、三十三年に一度の御開帳になります。 御本尊は弓削道鏡が流されて東へ下った際に、孝謙天皇より賜った唐国伝来の観音像「唐僧鑑真大和上が請来した仏像」を安置した、勝福寺は北千代台(小田原)に創建した千葉山弓削寺の東院堂であったとも言われています。 今の飯泉に移された後に、小田原城の鬼門鎮守の道場として崇められ今の寺名の飯泉山勝福寺に改められた。 御前立の十一面観世音菩薩立像は本堂の外陣より御簾越しに常時拝観することができます。 豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めた際に、家臣であった徳川家康は必勝祈願のためにこの勝福寺へ日々参拝していたそうです。 勝福寺の境内にある手水場の青銅水鉢は見逃せない形状をしています、船首に龍の頭、船尾に来迎仏を載せ細かい造り込みが見事な水鉢です。 また、見馴れている薪の束を背負う姿ではなく膝をつき両手を合わせて拝む珍しい二宮...
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