冬期休館 1993年に奥尻島に大きな被害をもたらした北海道南西沖地震の記憶を後世に伝える施設
📖北海道南西沖地震(奥尻島地震) 1993(平成5)年7月12日午後10時17分12秒、北海道奥尻郡奥尻町北方沖の日本海海底で発生した地震。マグニチュードは7.8、推定震度6(烈震)で、日本海側で発生した地震としては近代以降最大規模。奥尻島には当時地震計が設置されておらず、災害当初は対岸の北海道本島にあり古くから測候所のある寿都町の情報が報道されたが、寿都町は地盤がよいため震度4程度が報道された。しかし奥尻島の災害がわかるにつれて最終的に人的被害は、死者230人(青森の1人含む)、行方不明者29人、負傷者323人。家屋被害は、全壊601棟、半壊408棟、一部損壊5490棟、焼失192棟、浸水455棟、その他735棟に及んだ。さらに、道路の損壊630箇所、港湾・漁港の被害80箇所、船舶被害1729隻を出した。島の東部にある奥尻 地区では、地震直後に崖崩れが発生、直下にあったホテル洋々荘・森川食堂などが土砂により倒壊し、宿泊客と従業員41名のうち、28名が死亡した。その他数か所で崖崩れが発生し、道道奥尻島線などが一時通行不能となった。フェリーターミナルの方を迂回するしか方法はなかった。震度計が設置されていなかったことなどから、正式な震度については発表されていない。そのため、推定最大震度は6(北海道本土では最大で5を観測)となった。ただし、青苗地区のみを対象とした実地検分(気象庁職員が実際に現地を視察し、震度5・6を観測した地点で家屋倒壊が一定の基準を満たすかどうかについての検査)を行えば、当時の震度で7となっていた可能性 が高い。津波での死者・行方不明者は、奥尻島で島の人口の4%にあたる198人、北海道本島の島牧村や北檜山町・瀬棚町・大成町(いずれも現在のせたな町)などでも死者を出した。また、北海道利尻町から山口県および対馬の広い範囲に津波が押し寄せ、中国地方でも高いところで2-4mの津波があり、船舶や港湾施設に被害があった。第1波は地震発生後2-3分で奥尻島西部に到達し、5-7分後には藻内地区のホヤ石水力発電所に到達した。北海道本土側の茂津多岬付近では第1波が地震発生後約5分で到達している。奥尻島西部では第一波到達の10分後に最大波となる第二波(島を回り込んだ波)が到達した。津波の被害を最も大きく受けたのは、奥尻島南部の青苗地区である。三方を海に囲まれたこの地区は、震源より直接到達した波が、市街地でも高さ6.7mに達したほか、島を回り込んだ波、北海道本土で反射した波など複数方向から津波の襲来を受け、事実上壊滅状態になった。地区の人口1,401人、世帯数504に対し、死者・行方不明者109人、負傷者129人、家屋全壊400棟という被害を出した。このほか、藻内・松江など島の南半の各地区と、北端の岬にある稲穂地区でも津波で死者が出ている。奥尻島は1983(昭和58)年の日本海中部地震で津波被害を受けており、このときの到達は、地震発生から17分後であった。この経験から徒歩で迅速に避難し助かった人も多くいたが、逆に津波到達までは時間があると判断し、車で避難しようとして渋滞中に、また車で避難中に避難路の選択を誤り、あるいは避難前に用を済ませようとするうちに津波に飲まれた人も少なくなかった。その一方、海岸付近に立てられた鉄筋コンクリート2〜3階建ての住宅が一家の命を救ったという事例が存在する。この地震では、火災も発生した。青苗地区では、津波襲来直後に9件の火災が発生し、北東からの風速10m近い風にあおられ、瞬く間に燃え広がった。出火原因は分かっていないが、奥尻消防署の調べによると、午後10時40分頃、青苗北部の旅館がある一角から出火。さらに、午前0時30分頃にも漁業協同組合の倉庫や食堂が多くあるあたりから出火した。延焼が進むにつれ、プロパンガスのボンベや家庭用の燃料タンクが爆発を繰り返した。さらに、津波による漂流物が消火活動を阻み、手のつけられない状態となった。そのため、消防団は破壊消防を実施し、延焼の拡大を食い止めた。その結果、青苗1区の17棟だけは焼失を免れた、それ以外は火災により焼失したか、津波により流出している。鎮火に至ったのは、最初の出火から約11時間後で、延焼面積は約5ha、焼失は192棟に及んだ。火災を直接の原因とする死者はなかった
📖災害対応 地震当日、奥尻港に停泊していた東日本海フェリーの定期フェリー『ニューひやま』は、大津波の最中脱出に成功している。伴船長が日本海中部地震を秋田港でイカ釣り漁船に乗っていた時に経験していたことや、地震を感じた直後船員全員が船に乗っていたこともあって、「総員緊急配置、エンジン始動、直ちに出港」を指示し、舫い綱すべてを鉈で叩き切り脱出した。防波堤を超えた所で第1波と遭遇したが、何とか突破し、沖に逃れ第一管区海上保安本部(小樽)に船舶電話にて「奥尻島に大津波襲来被害多数至急救援求む」と連絡、これが奥尻島被災の第一報となった。当時奥尻島には駐在所3か所があったが、警察学校入校中と入院中のため青苗駐在所の一人の警察官しかいなかった。地震当日一般加入電話・警察専用電話も不通となったため、警察官は夏季のみ配置されていた警察無線機(通常は無線不感地帯のため配置なし)を持ってミニパトカーで山に登り、無線機で必死に江差警察署と連絡を取り、「青苗地区壊滅負傷者多数緊急救援頼む」と連絡し、その報告を受けた北海道警察本部長は、通常夜間飛行しない警察航空隊に対して直ちに発進、奥尻に向かえと指示した。しかし現地到着するも停電のため奥尻空港に着陸できず、上空から火災状況等を報告した。奥尻島に所在する航空自衛隊奥尻島分屯基地は、地震発生直後ただちに近傍災害派遣を発令し、崩壊したホテルでの救出活動や青苗地区での消火・救助活動に従事すると共に、負傷者に対しての医療支援・食料提供等を実施した。また函館駐屯部隊や第11飛行隊および航空自衛隊八雲分屯基地は災害派遣命令発令前に名目上は訓練という形で自主的に活動を開始した(正式な派遣命令発令後は災害派遣に切り替え)。奥尻島の被災映像を最初に伝えたのは、海上保安庁函館航空基地のヘリコプターである。地震発生翌日午前0時頃、第一管区海上保安本部に設置された対策本部から函館航空基地に対して、奥尻島への飛行が指示された。運用時間を過ぎていた函館空港は管制を再開したものの、当時の道南は曇りであり容易な夜間飛行ではなかったが、江差から日本海へ抜けたところで雲が切れ、そのまま奥尻島へ向かうこととなった。北海道広域消防相互応援協定に基づき札幌市消防局から消防ヘリコプター1機・車両3台・人員述べ165人、函館市消防本部から車両5台・人員述べ184人が派遣された。さらに八雲町消防本部、渡島西部広域事務組合消防本部、南渡島消防事務組合、渡島東部消防事務組合、森町消防本部、長万部町消防本部、苫小牧市消防本部、胆振東部消防組合、小樽市消防本部、旭川市消防本部、釧路市消防本部、帯広市消防本部、北見地区消防組合等からも応援派遣され奥尻島等で捜索・救助活動に従事した。この災害を受けて北海道は自治省消防庁(現在の総務省消防庁)に対して応援を要請し東京消防庁から航空隊・特別救助隊・水難救助隊から人員述べ184人、消防ヘリコプター3機と車両3台が奥尻島に派遣...
Read moreThis museum is an educational and artistic tribute to the 1993 earthquake and tsunami that devastated the island and a visit to Okushiri wouldn't be complete without a stop here. The building itself is an interesting reflection of the heavy, sobering mood of the tragic events and the exhibits within are informative and provide an important context for understanding Okushiri today. While much of the signage is in Japanese, an English guide book is available at the front desk upon request. Don't forget to visit the lower level, where a short film details the natural disaster and it's aftermath, and archaeological artifacts signifying the island's long inhabitation...
Read more1993年(平成5年)7月12...
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