下から登ってくるとわかりますが、この辺りから城壁の岩の大きさがとても大きくなります。普通に考えれば、上に行くほど小さな岩の方が運びやすく建築費用も抑えられ工期も短くなるわけですが、上に行くほど大きな岩で城壁を作ったのは信長の「心意気」なのだろう、と言う気がします。当時は石垣の城を持てるのは金持ちの殿様でなくては無理な贅沢品でした。一般的な城では、土塁(土を掘って山のように積み上げた壁)と石垣が半々くらいの城が一般的だったのを考えると、そのころの信長の日の出の勢いが伝わってきます。また、この巨石を、よくぞここまで持ってきたなぁ、と...
Read more☆天主や御殿のある安土城主郭部を防御する堅固な構えの「枡形虎口」。 近世城郭の原点、荒々しい石垣の野面積、可なり大きい石も組み込まれて鏡石のような、特に石垣隅部は武骨👀
織田信忠邸跡を通り過ぎて石段登った先に黒金門、正面には多聞櫓を備え、虎口侵入すると門扉に鉄板張り付けた黒光りする重厚な櫓門=黒金門😲 1576年(天正4年)~1579年に築城の安土城、築城総奉行「丹羽長秀」、当時として...
Read more「天守」を「天主」と表記するのと同様に他の城では「黒鉄門」と表記するところを「黒金門」と表記してあるのは安土城ならでは。 この黒金門は左右に堅固な石垣があり直角の曲がり角が2箇所、攻撃してくる敵兵のスピードを落とすための虎口の仕組みの原型とも言われています。 外門と内門を初めて設置したのもこの安土城と...
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