2011年3月11日の東日本大震災の津波によって被災し倒壊した、かつての女川の治安を守る拠点であった交番。現在は当時の津波の恐ろしさを今に伝える遺構として整備されており、年中無休、無料で誰でも見ることが出来る(倒壊した建物へは立ち入られない)。 遺構の周囲は円形の通路となっており、遺構の下部から上部まで見渡せるよう緩やかなスロープとなっているため、車椅子等の障碍を持つ方でも難なく見ることが出来る。通路には震災前の姿と、震災発生直後、震災以降の歩みがパネル掲示されている(全て日本語であるため、広く海外の人にも知ってもらうために、少なくとも英語の併記がほしい)。 頑丈な建物がこうも簡単にも倒壊する、という、津波の恐ろしさを肌身に感じる遺構である。
This police box, which was once a center of public safety in Onagawa, was damaged and collapsed by the tsunami caused by the Great East Japan Earthquake on March 11, 2011. It's now maintained as a reminder of the horror of the tsunami, and is open to the public free of charge, year-round (the collapsed building itself is inaccessible). The remains are surrounded by a circular pathway with a gentle slope that allows visitors to see from the bottom to the top, making it easy for wheelchair users and other visitors with disabilities to view the remains. In the passageway, there are panels showing what the building looked like before the earthquake and what it looked like immediately after and after the earthquake. Since almost all of the panel descriptions are in Japanese, I think it necessary to include English so that the panel could be more widely known to people overseas. The remain shows how easily a sturdy building can be destroyed, and the horror of the tsunami can be...
Read more旧女川交番は、鉄筋コンクリート造2階建で、津波により基礎や杭も一緒に引き抜かれ横倒しの状態で残った建物は世界的にも珍しいそうです。
以下、パネルのひとつにあったメッセージ、写真と共に転記させて頂きます。
東日本大震災では、女川町をはじめ、各地に甚大な被害がもたらされました。各地の震災遺構や様々な記録とともに、震災の恐怖や悲しみは伝えられていくでしょう。同時に、悲しみだけではないメッセージを伝えていくことも、私たちの大きな役目ではないか。私たちは、そう考えました。
あの日、私たちは、いつも当たり前だと思っていたものが実は当たり前ではなかったことを思い知らされました。そこからの日々は、その当たり前をもう一度取り戻すために皆で歩んできた道でした。
私たちが取り組んできた復興まちづくりはどこかの時点で完了し、その姿は100年200年と続き、いつか将来の人々にとって当たり前のものになっているはずです。でも、その姿は当たり前だったものが失われた跡に築かれたものであり、もっと言えば、震災前に私たちが当たり前だと思っていた郷土の姿も、実は戦火や災害で失われた当たり前を取り戻すべく先人が築いてきたものであったことに気付かされます。
将来の人々にとって当たり前の姿はいつ失われるかわからないこと そして、失われたとしても、それを取り戻すために皆で立ち上がらなければならないこと 壊滅した郷土に生を灯す人の歩み 絶望から希望を紡ぎだすこと 郷土に生きる私たちの想い 郷土の人々の生きる強さ 決してあきらめないこと 何があっても負けるな
震災遺構を保存すべき、と提言してくれた当時の中学生たちは、町内各地に石碑を建立し、「将来世代をあの悲しみと苦しみに遭わせたくない」という願いを込め、未来の人々にメッセージを刻んでくれました。 その想いに、あの日からの歩みの中で得た私たちの学びや気付きを重ね、ここにそのメッセージを記します。いつかの将来に郷土を災いが襲ったとき、人々の人生が何かに見舞われたとき、未来を生きる誰かの支えになれるように―。
「今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り...
Read more2024.12.17 牡鹿のホワイトディアーからはじまり女川入り。 この日は休みのあった家族4人で、東松島〜志津川沿岸をドライブ旅。 ひとしきり満足のランチを頂いたところで、この旅の主題へ。 今回旅する沿岸地域は、かつての大地震で甚大な被害を受けたエリアで、いまだその当時の姿を残す遺構が各所にある。 そして、ここ女川にもその猛威を印象付ける遺構があり、この旧交番を素通りすることはできない。
このサイズの建物なら、いとも簡単に基礎ごと抜き取り、横倒しにしてしまう津波の威力をまざまざと見せつけられる。 まだこの位置から見下ろせる場所に海面があることを認識すると、この勾配も簡単に駆け上がってくる波の壁、そしてその威力に唖然とする。
当時の地震は仙台長町の職場でリアルを体験し、お客様を避難・誘導させながら自身の身を守ることで精一杯。 直後は余震と雪の降る寒さに震えさせられ、その間隙をぬってようやく家族と合流、無事を確認できた。
一方でその時、沿岸地域ではここまで悲惨な境遇に遭っていることには頭が及ばなかった。 我々家族とは異なり、いくつもの家族を引き裂いた地震そして津波。 「行ってきます」のあとに、「ただいま」が交わされなかった家族があることを思うと、なんとかこの後も起こり得る天災に対する防災意識を高め、...
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