日本書紀 雄略天皇記(470年)「住吉の津に上陸し…呉の客の道の為に磯歯津路(しはつみち:今のほぼ長居公園通)を通して呉坂(喜連:きれの訛り)と名づけり」(書紀での呼称は習慣的に三国時代の呉のままと説明あり)宋(420〜479)斉(479〜502) ※この"磯歯津"なる文字 あくまで私の推測ですが"津"は住吉津(すみのえのつ)"磯"は往時 磯城(しき)の地とされた雄略天皇の初瀬朝倉宮とを長尾街道(古:大津道)竹内街道(古:丹比道)を利用して結び 残る"歯"は反正(瑞歯別:みずはわけ)天皇が宮を置いていた地 丹比(たじひ)を経由していたからではないでしょうか🤔
さらに検索を進めると 名を列ねるのが 神須牟地神社 住吉区 中臣須牟地神社 東住吉区 須牟地曽根神社 堺市 北区 湯里住吉神社(旧須牟地神社) 東住吉区 ここの神須牟地神社は2000年昔の御創建 中臣須牟地神社は2000数百年の由緒と明記しており(中臣の姓は欽明天皇期539〜571 とあるから それまでは中臣を冠してなかったはず) 四社ともに須牟地と名が付く事から 素戔嗚尊を祖とする住道首(すむぢのおびと)氏族の道祖神的な石碑・祠(ほこら)のような起源からではないでしょうか🤔🤔
住吉大社(211)が創建され 応神・仁徳期に入り 渡来人を広く認め 文化 技術の発展を もたらし 都を難波高津宮と定め インフラ整備を行い 住吉津 難波津の開港 堀江の掘削 以後 磯歯津路 難波大道(653)の敷設と 長い年月の中で渡来人の帰化の儀式の場で あったり 都へ向かう人々の歓待の場へと変化していったのでしょう 古代 都は御代の代替わりと共にあったので 港から都 都から港への道行きの違いに 従来の竹内街道(飛鳥方面)から龍田古道(平城京方面)に進路を変更 楯原に遷座(729:長屋王の変もこの時)されたのも その表れなのでしょうか🤔🤔 関所・入国管理のような厳しい一面も持っていたのでしょうね
場所は長居公園西側 あびこ筋 長居交差点の一つ北の信号 ケンタッキーと餃子の王将の間の道を西へ真っ直ぐ...
Read more神須牟地神社の由緒
延喜式内の古社であって三の宮と称され、遠く二千年昔に御創建されました。
御祭神 神産霊大神(かみむすびのおおかみ) 天日鷲命(あまのひわしのみこと) 少名彦命(すくなひこのみこと)
医薬の祖神・酒造の祖神として信仰が厚く、文武両道の守護神としても御神徳があった。
社領は、住吉大社二万二千石の中の三百七十五石余りであったが社領減地の節に没収されている。 本殿は慶長年間、兵火にかかったが豊臣の浪人であった多賀谷氏、秦氏、小山氏、岡田氏等の四名の協力で、元和四年八月二十一日遷座の式が挙げられ再建された。 この日を祭典の日と定められている。
元文元年九月、徳川幕府は本社及び多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏 菅...
Read more神須牟地神社(かみすむぢじんじゃ)。大阪府大阪市住吉区長居西。
式内社(小)、旧村社。
主祭神:神産靈大神 手力男命 天児屋根命 (配祀)天日鷲命 大己貴命 宇賀魂命 少名彦命 素盞嗚命...
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