歴史上で希代の偉業を果たしながら、時代の流れによって闇に葬られてしまった支倉常長が、永眠する墓へとアクセスする道を中心に整備された公園が、この「支倉常長メモリアルパーク」です。
支倉常長は慶長18年(1613年)伊達政宗の命をうけ、サン・ファン・バウティスタ号という木造船にて、メキシコのアカプルコ経由でローマへと渡り、ローマ法皇に謁見した初めての日本人です。
誰も成しえなかった太平洋・大西洋の二大洋を横断した男として、現代であれば希代のヒーローであろう支倉常長は、その過酷な7年の歳月を費やした旅から帰国した時、幕府の政策は鎖国そしてキリシタン禁教となっておりました。
ましてや藩主・伊達政宗の命は海外への軍事協力との説もあり、功臣ともいうべきこの支倉常長は事実上歴史から抹消されることになったのでした。
現在、支倉常長の墓といわれるものは、宮城県内に3ヵ所存在します。仙台市北山にある光明寺説。支倉常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺説。そしてこの大郷町説の3つです。
様々な憶測のもと、これらの歴史上の史実から大郷町の隠棲...
Read more宮城県黒川郡大郷町東成田山合地区にある「支倉常長メモリアルパーク」です。銅象があるポケットパークだと思い訪れてましたが、公園内の奥に支倉常長と義弟・支倉右衛門常次の墓がありそこを整備した歴史公園でした。 支倉常長は慶長18年(1613年)伊達政宗の命をうけ、サン・ファン・ヴァウティスタ号という木造船にて、メキシコのアカプルコ経由でローマへと渡り、ローマ法皇に謁見した初めての日本人です。 誰も成しえなかった太平洋・大西洋の二大洋を横断した男として、現代であれば希代のヒーローであろう支倉常長は、その過酷な7年の歳月を費やした旅から帰国した時、幕府の政策は鎖国そしてキリシタン禁教となっておりました。 ましてや藩主伊達政宗の命は海外への軍事協力との説もあり、功臣ともいうべきこの支倉常長は事実上歴史から抹消されることになったのでした。(...
Read more晩秋の頃に初めて訪れました。 牡鹿半島の月浦にある支倉常長出帆記念碑が陽なら、ここは陰と対象的な感じがします。 このパークは、遊歩道や階段等とても綺麗に整備されており、気持ちよく拝見させて頂きました。 藩主伊達政宗の命により、遠くスペイン・ローマへ出港したのが慶長18年(1613年)、7年後帰国時は鎖国と切支丹弾圧が全国的に強行されていたため、仙台藩は幕府へ常長死亡と報告、晩年を人目に触れないこの山林で過ごさせ、84歳の天寿を全うされたようです。皆さまも是非両方の地を...
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