別名 鹿島城 城の形態 連郭式平山城 天守閣 独立式層塔型3重4階御三階櫓
・歴史 戦国時代に戦国大名の千葉親胤(ちかたね)の大叔父にあたる鹿島幹胤(みきたね)に命じ築城を開始されるが、千葉親胤が暗殺されて築城の工事が中断されてしまう。 そして、慶長5年(1610年)に徳川家康公から命を受けた土井利勝が32000石(後に14.2万石)が入封し佐倉城の築城が再開され完成し、佐倉藩が立藩します。
佐倉城は、石垣を一切使用せず干拓以前の広大な印旛沼を外堀として代用し、内堀には広大な空堀を用いた、土の城として有名で日本100名城の1つとなっています。
この佐倉城の城主は代々江戸幕府の要職に就く者が多いため、「老中の城」という異名が付く程の城で藩主(城主)の入れ替わりが激しかった。土井氏に替わり寛永10年(1633年)に豊後国(現在の大分県)日田から石川忠総(ただふさ)が7万石で入封するものの、翌年に近江国(現在の滋賀県)膳所(ぜぜ)藩へ。
寛永12年(1635年)、摂津国(現在の大阪府)高槻藩より松平(形原)家信が4万石で入封するが、寛永17年(1640年)に再び摂津国高槻藩へ。
寛永19年(1642年)信濃国(現在の長野県)松本藩より堀田正信が1万石加増され12万石で入封するが、万治3年(1660年)に突如幕府に不満を抱き参勤交代で江戸に在住していたが、無断で佐倉に帰ってしまいます。当時参勤交代で江戸在住の大名は届け出無しで国元(自身が治める領地)に無断で帰ることは武家諸法度で出来ませんでした。そのため改易。つまり取り潰されてしまいます。
寛文元年(1661年)に上野国(こうづけ…現在の群馬県)館林藩より松平(大給)乗久が6万石で入封するが、延宝6年(1678年)に肥前国(現在の佐賀県)唐津藩へ。
入れ替わりに肥前国唐津より幕府老中首座大久保忠朝が8.3万石から1万石加増され佐倉藩に入封し、大久保忠朝は老中首座に座ります。この時に幕府最高職の大老の堀田正俊が、譜代大名の稲葉正休に殺害されてしまう事件が発生。大久保忠朝は、阿部正武、戸田忠昭と稲葉正休を討つことに成功します。 そして、その功績を認められ忠朝は相模国(現在の神奈川県)小田原藩へ。
翌年、武蔵国(現在の東京都、埼玉県)岩槻藩より戸田忠昌が6.1万から1万石加増され入封するも、元禄14年(1701年)に越後国(現在の新潟県)高田藩へ。
同年、越後国高田藩より幕府老中、稲葉正往(まさみち)が10.2万石で入封しますが、享保8年(1723年)山城国(現在の京都府)淀藩へ。
同年を山城国淀藩より幕府老中松平乗邑(のりさと)が6万石で入封し、老中首座となる。徳川家第9代将軍の徳川家重に罷免され、延宝3年(1746年)に出羽国(現在の秋田県、山形県)山形藩へ。
そして、出羽国山形から幕府老中堀田正亮が1万石加増され、11万石で入封します。堀田正亮は暗殺された堀田正俊の孫にあたる人物です。以降、堀田家が明治維新まで佐倉の地を治めます。第5代の堀田正睦(まさよし)は2度幕府老中を勤め、アメリカ合衆国のペリー提督が来航した時は、幕府老中兼外国事務取扱役となり日米修好通商条約の締結に奔走します。将軍継嗣問題で幕府大老井伊直弼と対立し敗北したため幕府老中を罷免されてしまいます。
国元の佐倉に帰った堀田正睦は、全国に先駆けて医学、蘭学を取り入れ当時の最先端医療を身に着けていた佐藤泰然(本名、佐藤信圭(のぶかど))を佐倉に招き城下本町に順天堂を開きました。現在の順天堂大学、順天堂醫院のことで、「西の長﨑、東の佐倉」と並び称され、一気に佐倉の名は全国に轟きます。戊辰戦争時は明治新政府と徳川幕府の仲介役として動くものの失敗し、新政府に恭順し明治4年廃藩置県により佐倉県→印旛県→木更津県→千葉県となります。最後の藩主堀田正倫は伯爵位となります。
明治新政府の廃城令によりほとんどが撤去されました。明治に入ると大日本帝国陸軍の陸軍第2歩兵連隊と第57歩兵連隊の駐屯地となります。
昭和37年(1962年)佐倉城址公園として整備されます。
アクセス JR総武快速線、成田線、佐倉駅より徒歩25分。 京成本線、京成佐...
Read moreAn awesome place to walk around, especially during the spring months when the weather is neither too hot nor too cold. My favorite sight was the 出丸, demaru, where a kind of turret once stood. Give yourself at least a few hours in order to see most of the park, although a thorough tour might take more time. There's a good deal of English information on the signs and online about Sakura Castle (even a...
Read more石垣のない土塁ではあるものの、その巨大な規模の城郭は今でもしっかり残っているんです。
まずは歴博すぐ近くの空堀、これは帝国陸軍の駐屯地時代は埋められていたのを掘り返したもの。 歴博があるのは武家屋敷があった椎名曲輪で、仮にこれを攻略されても、二ノ丸への侵入を防ぐための馬出し空堀として機能させるという意図のようです。
雪に染まって、深さも形状もわかりやすいですね。
丘陵の下には出丸、その周囲には堀と門。 出丸は本丸下に2ヶ所あって、堀を渡ろうとする敵に備えた1次防衛線です。
この門は、実は城内のどこにあったものなかはわからずとのこと。 でもこの風景にはぴったり溶け込んでいますね。
天守閣があったのは、城の南西辺です。 城壁下には出丸もあるし、鹿島川や高崎川にも守られているので、ここは直接攻撃を受けることはないという確信があったんでしょう。
一の門の写真には、よく見ると侍の姿が。 当時の一般武士の集合写真って珍しいですけど、井伊直弼に政争で敗れたとはいえ、堀田正睦には老中であった威信が残っていたおかげなのかな。
単なる広っぱのようですけど、これは本丸。 二ノ丸や三ノ丸も広々としていて、佐倉城の往年の姿は相当のものだったんだろうなと。
土井利勝以降、著名な譜代大名に与えられたという城だけのことはあります。
二ノ丸には藩の政務が置かれ、堀田家の殿様もここに住んでいたんだとか。 ここと本丸に当時の門や建物を再現すると、いい観光施設になるだろうにな。
大手門は天守閣から離れており、総構えだった佐倉城の規模がよくわかります。 この周辺は原っぱで、何かに使わないと勿体ないなと思ってしまうのは、都会に住む人間の狭量なんだろうか。
城の全体図、規模感を掴み辛いですけど、周囲を歩くと30分以上はかかると思います。 こんなに立派な城、城外には武家屋敷もしっかり保存されているにも関わらず、成田からの外国人も素通りらしい。
観光地として賑わう川越と何が違うのか。 商業が発展していた川越に対して、佐倉は武士の町、商売っ気がないんですかね。
武士の町らしく、流鏑馬や大名行列パレードをやったり。 歴博と合わせて、やりようによってはいい観光地になるんだろうになと。
そうそう、春になると、桜が城を覆い尽くすのは美しいんです。 その季節に是非...
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