「軍神」とまで讃えられた不敗の名将であり生涯戦績61勝2敗8分、驚異の勝率97%を誇る上杉謙信がその生涯において、ほぼ唯一の大敗を喫した城郭です。 文献資料からも謙信がココで直接指揮をとっていたことは間違いなく、一生忘れられない屈辱の場となった事でしょう。(もう一敗の方は上杉軍が敗北したのは確かだが、謙信がその場にいた確証がない。)
では、その軍神をも退けた臼井城を見ていきましょうか。地形的に特に要害堅固な訳でもなく、規模もそれほど大きくはないです。また縄張りも単純で、武田流丸馬出しのようなテクニカルな防御攻撃施設が待ち構えているのでもありません。 本丸・二の丸を隔てる空堀は幅が20mを超え雄大ですが、これは近世に酒井氏が大名として入った際に、火器を主力とする戦闘に対応して拡張したもので謙信当時のものではない、とのことです。 要するに、パッと見には「謙信ほどの男がなぜ?」という程度の城でしかないのです。それでも謙信を撃退出来た理由をいくつか考えてみました。
「臼井城の戦い」は上杉氏と敵対する北条氏に属する、地元の千葉氏・原氏の排除を目的として行われました。上杉軍と謙信の招集に応じた里見氏などの連合軍15000と迎え撃つ北条陣営2000の戦いで、言うまでもなく上杉側が圧倒的に優勢です。
しかし、この人数を持ってしても臼井城は完全包囲が難しい城ではありました。今でこそ背後の印旛沼は干拓によって水が抜かれて水位が下がっていますが、当時は沼が本丸に接し船着場があるほどの「水城」だったのです。そして1kmもない印旛沼の対岸の岬には、同じく北条陣営の師戸城があり水運ネットワークで臼井城と繋がり、制沼権(?)をがっちり抑えていました。
分かりやすく言うと、玄関先で謙信が大暴れしてしていても勝手口は開け放しで、自由に出入りができ食料や物資の運び込みになんの支障も無かったのです。臼井城は単体で考えるべきではなく、印旛沼を取り巻く砦や城も含めて水運ネットワークで結びついた「広義の臼井城」として捉えるべき存在なのですよ。 また水軍の運用に優れた北条側も、ゲリラ攻撃部隊を組織して上杉陣営の防御の弱い所を狙っては兵を上陸させて、後方を撹乱し補給兵站を断とうとしたはずです。陸の王者である上杉謙信も、勝手の違う攻撃にかなり戸惑った事でしょう。
他の問題として上杉陣営は大軍ではあるものの、基本的に恩賞目当て集まった雑多な集団であった事が挙げられます。直属の越後兵であれば謙信の意図を汲んで手足のように動きまわってくれるのですが、連合軍ともなると兵の練度もマチマチで不用意に城に近づいて、敵の罠にかかり一瞬のうちに大人数がなぎ倒されてしまう事もあったようです。
そして何よりの問題はやはり「食料」だったに違いありません。謙信の本拠地である新潟は、あまりにも遠すぎるんですよ。ナポレオンは「軍隊とは自分の胃袋の上を行進する存在である。」という名言を残していますが、今回の上杉軍は完全に胃袋の外に出ちゃってます(笑)。 現在だって新潟からトラックで米俵をここまで運ぼうとしたら、高速道路を使っても相当シンドイことになるでしょう。結局は現地調達によるしかありませんが、それも限界があり大軍なだけにあっという間に現地の食料を食い尽くしてしまったものと思われます。
それによって士気が下がり城も簡単には陥ちそうもなく「攻勢の限界点」に達したと判断した謙信が、諸将に「とりあえず一旦解散、各自撤収!」という内容の軍令を出したのではないでしょうか。それで其々が撤退のため背中を見せたところを北条陣営に襲いかかられ、この時に上杉側は最大の損害を出してしまったのです。
この敗戦は上杉氏による関東支配の転換点となりました。それまで上杉氏に従っていた関東の諸将は次々と離反し、中には公然と北条氏につく者も出てきました。その後も謙信は関東への介入を続けますが、ついに失地は回復出来なかったのです。謙信にとっては忘れたくとも忘れられない城であり、容易く陥せると思っていたら鋭いト...
Read moreせっかく見晴らしが良い高台に有るので、近辺の荒れ地を開拓して展望台型のカフェや地元産牛乳使用メニュー中心のミルクホールが在る高層ビルを設ければ、印旛沼周辺を見渡せる観光スポットになると思います。 印旛沼周辺を十二分に楽しみたい方々と合宿及び修学旅行の為にカプセルホテルも展望台の中途階あたりに設けて、地上階に土産物屋や周辺地域の案内所や休憩室や甘味処や歴史資料室や診療所(地域住民用で歩行旅行者用)を設けて、周辺地域の歩行者の為のウォークラリー用やハイキング用のハブ的スポット及び避難所として機能出来るようにして頂きたいです。
周辺地域も臼井城址公園への道案内と道の整備と観光施設及び途中休憩施設に力を入れて観光スポット化をすれば、周辺地域に何倍の利益にもなって還って来るでしょう。
武家の戦争が有った土地なので、慰霊施設やミニ博物館を設けて頂きたいです。
皆様からの閲覧回数が50回を超えました、この史跡兼施設に対しての皆様の…地域活性化の可能性に対しての…期待の程が伺えました、これからも何か書く事が有れば提案してみようと思います。
この辺りも、上記のような提案をする間でも無く都市開発会社に目を付けられ、隅から隅まで開拓されて…高層マンション群を建てられる形の…住宅地や展望台付きデパート敷地や大病院や(ゆうゆうの里のように介護用マンションが数棟は設けられる)大型介護施設にされてしまうのだろうか?その場合は最上階に(カフェインレス希望者に優しい乳製品中心の)ミルクホールが印旛沼近辺も臨めるパノラマ仕様で設けられると観光名所になりそうです。 最下階には(住民の為の日用品と走り込みや競歩などで鍛える近辺の方々の為の休憩用と歩き旅行やサイクリングなどでの遠方からの観光客の為のお土産用の品々やサービスを揃えた)商店街を忘れ無いで頂きたいです。 点在していた神社や祠や碑は土地の隅っこに、休憩スペースの一種として集められる形で避けられそうです。 臼井城址公園は、中央広場兼避難区域という形で残されるのでしょうか? だって、この地域から見える印旛沼周辺は本当に絵になる絶景だから、この地域を見逃す都市開発会社は見る目が無いモグリか素人だけだと思います。
⚪2022年10月14日(金曜日)。 日本史における全国的な有名人である上杉謙信公が絡んでいる事と印旛沼が良く見える立地な事により、Googleマップに「観光名所」として提案してみました。
皆様からの閲覧回数が55回に達しました❗
⚪2022年12月24日(土曜日)。 皆様からの閲覧回数が100回に達しました‼️
⚪2023年1月14日(土曜日)。 皆様からの閲覧回数が140回を超えました。 少なくとも、佐倉市はコンビニエンスストアを手前に誘致して歩き旅行客などの利便性を高めるべきだと思いました。
⚪2023年1月16日(月曜日)。 皆様からの閲覧回数が150回に達しました❗
⚪2023年3月5日(日曜日)。 皆様からの閲覧回数が、200回を超えて更に250回を超えました!!
⚪2023年3月29日(水曜日)。 皆様から閲覧回数が、300回を超えて更に320回を超えました!!
⚪2023年6月3日(土曜日)。 皆様からの閲覧回数が、350回を超えて更に380回を超えました! 「いい...
Read moreThis is a castle ruins with what we call Kara Bori or castle moats without water. Old tall trees occupy here and there. Moroto Castle Ruins across Inba Marsh is a must...
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