広義の飛鳥時代は飛鳥を都とした崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)までの118年間とあります(Wikipedia)崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立された様ですが、それは物部氏を滅ぼす序章的な出来事でした。ところが崇峻天皇はその蘇我馬子によって暗殺されてしまうのです。崇峻天皇は蘇我馬子によって即位したり殺されたり、蘇我馬氏の横暴を象徴する存在になってしまっています。
587年7月穴穂部皇子暗殺(物部守屋が支持) 587年7月丁未の乱(ていびのらん)物部氏滅亡 587年9月崇峻天皇即位(実権は蘇我馬子にあった) 592年飛鳥遷都(蘇我氏の本拠地) 592年12月崇峻天皇暗殺(犯人の東漢駒は口封じの為に処刑) 593年1月推古天皇即位(崇峻天皇の姉) 593年聖徳太子は摂政に 593年四天王寺建設開始(廃仏派だった物部氏の財産で仏教推進) … 626年蘇我馬子没(5...
Read moreのどかな田畑と家々を抜けていくと、山に隣接するようにして陵がありました。 それが崇峻天皇倉梯岡陵(すしゅんてんのうくらはしのおかのみささぎ)です。自然が多くてとても静かで良い場所でした。 そんな静かな場所に眠る崇峻天皇(?〜592年)は、蘇我氏の権力が大きい時代に即位しました。天皇なのに実権を蘇我馬子が握っているせいで思うようにできない崇峻は馬子との間に軋轢が生じ、最終的に馬子によって暗殺されました。家来が狩ってきた猪の首を切り落として、「馬子の首もこんな風に落としたい」と言ったところを偶然馬子の家臣が聞いてて馬子にチクって殺された、と言われています。殺された天皇は歴代でも第20代安康天皇と...
Read moreここは桜井吉野線から倉橋の村中に入った静かな場所である。歴代天皇で暗殺された数少ない天皇である。拝所の雰囲気は丁寧に手入れされているし、周りの住民からも丁寧にされているとは思うが、御陵の廻りを一周してみたが、まるで御陵の様子が見えない。後部にやや盛り上がったマウンドが見えるだけである。学者さんのほぼすべてが否定しているのが納得出来る。実陵は赤坂天王山古墳との意見が多い。そこは自由に石室内に入れるが少し勇気がいる。宮内庁は何処かでしっかり祀れば問題無いとのスタンスだろう。実際に本陵云々を言い出すとパンドラの箱を開けることになる。 崇峻天皇の時代は特に激動の時代であった事だろうけど、今も崇...
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