風の神を祀る龍田大社さん、 本殿の柱には龍が登る様にしめ縄が張られています。
当社は、風の神様、始まりの神様を奉斎す。当社創祀に回帰すべく、意(こころ)して、参拝者の祈念に応え、個々の心の安定をはからしめ、渾然一体真の意(こころ)の形成に寄与し、以って大道泰平に貢献す。人は天地五行の気を禀(う)け、以って生を成すにより、一心自ら各々五気の徳備わり、五行の大過不及により五徳を発揮成す事能(あた)わざるに至る。然れば五行を以って大過成す人には之を抑え、不及成す人には之を助く事に努むる。
今から約2100年前、第十代・崇神天皇(すじんてんのう)の時代、国内に凶作や疫病が流行し騒然としているなか、天皇の御夢に大神様が現れ「吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて…」という御神託を授けられました。その通りにお社を造営すると、作物は豊作、疫病は退散したと伝えられ、これが当社の創建とされています。 <延喜式・龍田風神祭祝詞より>
天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比古神(しなつひこのかみ)) 国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比売神(しなつひめのかみ))
龍田比古命(たつたひこのみこと)・龍田比売命(たつたひめのみこと) 「龍田」の地名は古く、初代神武天皇即位の頃までさかのぼり、龍田地区を守護されていた氏神様と伝えられる夫婦の神様です。 <延喜式・神名帳より>
天と地の間即ち大気・生気・風力を司る神様で、「風の神様」と申します。ご神名の「御柱(みはしら)」とは「天地万物の中心の柱」とされ、別名の「志那(しな)」とは「息長(長寿)」を意味し、「気息の長く遠く吹き亘る」とされます。つまりは天地宇宙の万物生成の中心となる「気」をお守護(まも)りくださる、幅広いお力のある神様です
当社のご神紋は八重の楓となります。当社は風の神様をお祀りしており、楓は文字通り「木」偏に「風」と書き、陰陽五行では風の神様は木気にあたることを示しています。また八重とは、四方八方の八方向を意味し、東西南北とその間の四方向を指します。風の神様の清々しい「気」が天下すべてに行きわたる様にとの祈りが込められています。
上座:天照大御神(あまてらすおおみかみ)・住吉大神(すみよしおおかみ)の相殿 中座:枚岡大神(ひらおかおおかみ)・春日大神(かすがおおかみ)の相殿 下座:高望王(たかもちおう)のお妃(平家の祖先) *三社ともに創建年代不詳
白龍神社(はくりゅうじんじゃ): 縁結び・浄難災難除けの神様。江戸末期から明治末期まで、御神域に白蛇として現れ信仰されていましたが、一夜にして姿が見えなくなりました。その後、明治41年春、突如にごり池(現在の北葛城郡広陵町(きたかつらぎぐんこうりょうちょう)に白龍として出現されましたので、この地にお迎えし、お祀りしました。
龍田恵美須神社(たつたえびすじんじゃ): 福徳円満・商売繁盛の神様。鎌倉時代兵庫県西宮市の西宮えびす神社より御分霊を勧請(かんじょう)し、やがて江戸時代には荒廃していましたが、昭和62年に復興しました。
三室稲荷神社(みむろいなりじんじゃ): 福徳円満・商売繁盛の神様。創建年代不詳。
下照神社(しもてるじんじゃ)...
Read moreぷち願いが叶った神社。
いつの間にか、 龍を知り、龍を好み。神社巡りをする中で。 龍神様から風神様を知り、龍田大社を知りました。 事ある毎に『行きたいんです!(連呼)』 やっとポッカリ空くタイミングが生まれ。 行けました‼️ずっと御願いしてた価値あり‼️ 【風鈴祭】を知り、そのタイミングでの参拝! 行く準備として、調べてる中で。 〖廣瀬大社〗も知ったので、3社巡りを決行‼️ ※当日※ 【廣瀬大社≫龍田神社≫龍田大社】
崇神天皇が御世をされてる際、 心をいためる出来事が有り。 龍田川の上流より流れて来た 〖八重の楓〗を献上したのが神紋の由来...
Read more龍田大社(たつたたいしゃ)。奈良県生駒郡三郷町。
式内社(並名神大)竜田坐天御柱国御柱神社 二座。二十二社(中七社)の一社。旧官幣大社。 風の神(風神)として古くから信仰を集める。
主祭神: ・天御柱命(あめのみはしらのみこと) - 右殿。 ・国御柱命(くにのみはしらのみこと) - 左殿。 龍田の風神と総称され、広瀬の水神と並び称された。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(しなつひこのみこと:男神)、国御柱命は級長戸辺命(しなとべのみこと:女神)のこととされている。
資料によると、 『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。
国史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神は風神で「志那津比古神」、「志那津比売神」とも呼ばれ、イザナギ、イザナミの子神と言われている。 風神祭が天武期に広瀬の大忌祭とともに祭られているが、まさに半島・大陸との関係悪化の中、大和の砦としてこの地域の部族を引き入れる方策であったと指摘する見解がある。 広瀬大社の位置が大和盆地の水運を睨んでいるのとあわせて、この龍田大社は瀬戸内から大和への侵入の最後の拠点であるとも言える。
この神社の西に雁多尾畑(かりんどおばた:大阪府柏原市)があり、ここの神社には金山彦、金山姫の命が祀られている。この地域一帯は製鉄(野タタラ)が行われていたのである。 雁多尾畑の北に御座峰があり、龍田神の降臨する聖地とされており、神官が祭の日には登るそうである。 風神は元々タタラ製鉄の為にはなくてはならない強風の吹くことを祈る神であった。 それが新しい製鉄法と稲作とが渡来し、農業の守護神として風を鎮める神とされていったのである。...
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