義経は幼少期を「鞍馬寺」で送ったとされますが不明な点が多く、史実としてはっきりしてくるのは1180年の「富士川の戦い」で頼朝と対面して以降の事です。以後、平家討伐の戦いに抜群の功績を挙げますが兄頼朝の不興をかい「逃亡先」の奥州平泉で1189年6月に自害しました。享年31歳。 頼朝の不興をかった原因として、あまりにも義経が「活躍」しすぎたからという説が有力です。まさしく「狡兎死して走狗烹らる」を地で行きます。一方義経の人間性そのものが原因だったという解釈もあります。司馬遼太郎氏はその著述の中で、預けられた寺院で義経は「セクハラ」を含むかなり悲惨な思いをしたのではないかと述べられています。幼少期の心的ストレスにより、瑕疵の多い人物に育った可能性は否定できません(あくまで個人の見解です)。事実「吾妻鑑」では自専の振る舞いが目立った、と記されています。このため周囲から疎んじられ、頼朝も義経を討たざるを得なくなったのかもしれません。 ところで「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉があります。善悪を無視して滅びゆくものに同情を寄せる、事を意味します。義経が左衛門少尉(判官)の地位にいたことから出た言葉です。このような言葉が残るくらいですから、過去多くの人たちが義経に同情したのでしょう。その結果、義経と弁慶は北に逃げ延びたという「義経生存説」が生まれたものと考えます。その「北帰行」の途中休んだ場所がここで、その後三厩から北海道へ向かったとされています。さらには樺太経由で大陸に渡り、モンゴル帝国の初代皇帝「ジンギスカン」になったという話まで存在します。なお頼朝(鎌倉幕府)に対する遠慮なのでしょうか、このお寺は「よしつね」ではなく「...
Read more青森県の義経寺は、源義経にまつわる伝説が深く根付いた歴史ある寺院です。津軽半島の外ヶ浜町に位置し、雄大な津軽海峡を見下ろす高台に佇んでいます。
義経寺の歴史と伝説
源義経は、奥州平泉で自刃したとされていますが、義経寺には、義経が平泉での戦いに敗れ、頼朝に追われながらこの地まで逃れてきたという伝説が残っています。そして、荒波を越えて北海道へ渡るために観音様に祈りを捧げた場所とされています。
この伝説に基づき、円空が義経の霊を弔うために観音像を彫り、小さな堂を建てたのが義経寺の始まりとされています。
義経寺の特色
円空仏: 本堂には、円空が彫った木彫りの観音像が安置されており、青森県重要文化財に指定されています。素朴ながらも力強いその姿は、多くの人々を魅了します。 津軽三十三観音霊場: 義経寺は、津軽三十三観音霊場の19番札所でもあります。 神仏習合: 本堂だけでなく、観音堂、弁天堂、金比羅、堂阿弥陀堂などが並び、神仏習合の様相を呈しています。 厩石: 寺の前には、義経が馬を繋いだといわれる厩石が残っており、歴史を感じることができます。 絶景:...
Read more[義経寺]
義経伝説が残る津軽海峡を見おろす寺
源義経は奥州平泉の衣川で自刃したといわれているが、源頼朝に追われ龍飛崎まで逃げて荒れ狂う海を前に観音像に祈ると、3頭の龍馬が現れ海峡を渡ることができたという伝説が残る。 ここには義経が祈りを捧げたという観音像が安置されている。 義経が海を渡った500年後、厩石を訪れた円空は義経の守り神だった観音様が岩の上で光っているのを見つけ、流木で仏像を彫りその中に観音像を納め小さなお堂を建てて祀った。 そのお堂が義経寺となり、円空仏は1963年に青森県重要文化財の指定を受けている。 また、浄土宗津軽33観音霊場第19番札所となっており、県内では数少ない神仏混交で山門から本堂の間に観音堂、弁天堂、金比羅、堂阿弥陀堂が並んでいる。
こんなところに義経に関する寺があるとは驚き。 高台にあるので眺めも良い。
おすすめ度:★★☆☆☆...
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