現在 「裾野市平松350番地」とありますが、むかしは「泉村平松字十三塚」という地名でした。 この神社のほかにも二条為冬を祀る神社は存在していている。 いくつものストーリがあり、それに従った神社が存在しているようである。
❷【参考 静岡県駿東郡誌 1917年】
戦のストーリは【❶二条為冬の祀られる場所】にて
「竹の下合戦」に敗れた「二条為冬」は従士72人を従えて、この地、佐野原に退きますが、ついにこの地にて戦没してしまう。従士72名も全員戦死してしまう。この地の者がその忠義の死を悼み、遺骸をあつめてここに埋めて13の塚を築いた、とある。 二条為冬の塚は「将軍塚」といわれ、崇敬されたとある。
明治9年4月18日にして祠を立てて「二条為冬」の神霊を祀り、同日に村社に列した、とある。 明治15年7月に「朝廷」より「備前景光の短刀1口」「並祭祀料金50円の恩賜」もあり。 明治16年 有栖川宮 篆額(てんがく)、谷中将 撰文の碑を境内に樹つ、とある。
❶【「二条為冬が祀られる場所」参考 日本の首塚 1973年】
二条為冬が祀られる場所(1973年の書による)
[戦のストーリーと祀る神社と首塚]
1_戦のストーリーと祀る神社 建武2年12月に足柄峠にて「竹の下合戦」といわれている合戦があった。 この時、討ち死にした者の1人に、京都の文化人であった「二条為冬(ためふゆ)」がいる。
朝廷軍は「尊良(たかなが)新王」を主将に、副将に「脇屋義助」を据えた軍で、総勢7千騎余り。それに順する「新田義貞軍」は6万騎余りであったという。 それに対する「足利尊氏軍」は、18万騎の大群であったという。
合戦は朝廷側がひとたまりもなく敗軍した、とある。
二条為冬(ためふゆ)は自害し、従っていた兵士もあとをおったという。 憐れんだ村人は、後年「白旗神社」を建てたという。(静岡県駿東郡小山町竹之下3222−1) また、1説に 二条為冬(ためふゆ)討ち死にと伝えるところに、「佐野原神社」がたてられた、という。(この場所である) そしてもうひとつ、二条為冬の首塚と称するものがあったことを、地元の「村田屋文書(※1)」が語っている。 「太平記」には二条為冬の首を実検して「足利尊氏」が涙したとあるが、ここには別な伝説が残る。
2_首塚 二条為冬に従っていた、「新田堅秀」という者が、負傷しながらも2つの首をたづさえて、小山町菅沼(乗鞍の郷)にのがれてきた、という。首は「二条為冬」と「北畠経道」のものだという。 百姓である「悟助」の家にかくまわれているうちに、そこの娘と結婚して武士を捨てたと伝えている。
首塚については、7代目の秀義の文章に「藤原為冬卿北畠経道殿供養塔造立之事」というのがあり、正平24年(1369年)に分族した時に、我が家の北西に埋葬しなおした、とかかれている。 ただし、現在不明である、とある。(熊野神社・...
Read more★公家大将が眠る地、祈りが奇跡を起こした神社★
文政12年から安政6年(約150〜179年前)裾野市一帯で猛威を振るった「高熱を発し、顔面蒼白となり、痩せ衰えてコロリと死す」という何とも恐ろしい疫病
医者の三好玄意はこの疫病に立ち向かいましたがついに治療法が見つからず、最後の手段として神に助けを求めました
彼は京都の吉田神社から分霊を持ち帰り、ここ佐野原神社で疫病退散の祈願祭を行いました
村人たちは神輿を担ぎ、村々を練り歩いた結果、疫病は急速に退散し、村は再び平穏な生活を取り戻しました
なんていう逸話の舞台となったこの神社
【御祭神】 藤原朝臣二条為冬卿 フジワラアソンニジョウタメフユキョウ...
Read moreいつ行っても綺麗に整備されていて清々しい気持ちになる神社
藤原定家の玄孫、二条為冬卿が祀られる学芸と文学の神ということもあってでしょうか。 9月の平日に行きましたが参道の脇にはたくさんの風鈴が飾られていて心地良い風ときれいな音色で迎えてくれました
あととにかくこちらの季節ごとに変わる限定の御朱印がとっても素敵なんです!
コロナ禍、行動規制がかかってていた時に行った時には遠方の方が来ないようにSNSなどへの投稿は控えてほしいと言われたほど^...
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