今の教科書では「聖徳太子は古代における理想の政治家の姿を投影しただけで、そういう人物はいなかった。」と教えているそうですね・・。 あ、コレはもちろん、そういう「名前」の人間は存在しなかった、という意味です。
要するにモデルとなった用明天皇の第二皇子「厩戸王」の業績が、様々な面から研究が進み再評価が始まっているのです。そんな古代研究の上で最もホットな場所に行って参りました。
まず山内の「叡福寺北古墳」ですが、これは考古学的にも厩戸王墓である事がほぼ確実視されています。 年代や様式が合わない、として仁徳天皇陵が大仙古墳、応神天皇陵が誉田山古墳へと名前が変わってしまった今、なかなか珍しい事です。
と言うのも通常、天皇墓や皇族の墓は宮内庁の管理下にあり公開は厳禁で、内部は秘密のベールに包まれ検証が難しいのですが、この叡福寺北古墳は江戸時代までは横穴式石室が公開されていて見学者による詳細な記録やスケッチが残っているからです。
それらの資料をもとに学術的に復元した石室の様子や内部の柩の配置が「大阪府近つ飛鳥博物館」に実物大展示されているので、見学してから(車で10分程度)ここを訪問した方が、より感慨が増すでしょう。
聖人君子としての「聖徳太子」ではなく、人間としての「厩戸王」墓には、生前の人柄を彷彿とさせるような特徴がたくさんあります。 まず政権の中枢にいた皇族の墓としては非常に小さくシンプルである事です。
それは政治のパートナーであった蘇我馬子の墓とされる「石舞台古墳」と比べると明らかです。 こちらは巨大石室を持ち一辺が80m以上の方墳で、周囲を空堀で区画するという、贅の限りを尽くした古墳でした。
一方同時期の叡福寺北古墳は、北側の山の地形に影響されて南北43m、東西53mのいびつな楕円形の円墳です。墳丘は三段になっていますが山側にまでは及んでおらず、南側の正面だけ古墳として必要最低限の体裁を整えた形です。 また葺石や化粧石など、外観を美麗にする加工はおこなわれていませんでした。
要するに目につくところだけ豪華にして、見えないところは徹底的に節約する「びんぼっちゃま」スタイルです。
厩戸王の心情として、国家ではなく私的な目的で民を酷使し、国家予算を食い潰すことに抵抗があったのかもしれません。 あるいは、「永遠に後世へと伝わるのは、名声であって墓ではない。墓など立派にしてもしょうがない。」という合理的思考の持ち主だった可能性もあります。
ところで古墳は厩戸王の単独墓ではなく、母と妻との共同墓となっています。 厩戸王の指示により崩御の三年前には、この古墳は築造されていたようですが、最初に葬られたのは母の穴穂部間人皇女です。そのため棺は石室の一番奥に位置しています。
その一年後に厩戸王と妻の膳部菩岐々美郎女が相次いで亡くなり、同じ叡福寺北古墳に葬られます。 「厩戸王」享年49、死因は天然痘とされ、妻は看病中に罹患したものと思われます。
夫婦の追葬はある意味、墳墓のリサイクル利用であり、厩戸王は非常にエコな人物でもあったようですね(笑)。 それとも一人で眠るのは、寂しくてイヤだったのでしょうか? あっちの世界でも賑やかに暮らしたかったのかもしれません。
なんにせよ聖徳太子伝説を抜きにしても、実に魅力的な厩戸王の人物像が墳墓か...
Read moreNot so busy even on New Year's day, and it definitely feels like a place to care for the spirits of the visiting families not one which caters to tourists. The monks had a big bonfire lit and free hot sake to...
Read moreSaid hello to 2025 from this amazing temple. Thank you for having me. What a beautiful temple especially the Pagoda in the night sky.. The hot sweet sake with ginger bits...
Read more