This site has been reclaimed for public use with the surrounding properties providing access and a carpark. The land shows clearly the foundations of the ancient structure but for the most part nature has taken possession of the land and is very pleasant to walk around. The Sakura and other tree and flower specimens were a...
Read more大規模な山城。私が最も好きな武田晴信公(実際の総大将は武田逍遥院信廉)が攻めた土地。 上州の黄斑と呼ばれる長野業政が治め、二度武田軍を撃退した。だが長野業政がなくなると、その隙をついた武田軍と長野業政の長男の業盛が武田軍と激突した。 だが圧倒的な戦力差、北条、上杉からの援軍という望みも絶たれた城内で武田軍がついに二の丸まで侵攻すると、本丸のさらに奥にある御堂曲輪で城将全員が自害して果てた。城主長野業盛は享年19。 その後は内藤修理亮昌秀が武田将として治めるが長篠の戦いに出陣し討死。 その後甲相駿三国同盟の崩壊を理由に北条軍が押し寄せ落城させ、北条氏邦が入りここを大改修した。 さらに織田軍が信濃まで進出しこの箕輪城をとると、織田軍関東方面軍大将の滝川一益が一時的に入りここを治めた。 織田家が滅亡し神流川の戦いで滝川一益が敗れると、再び北条領へと戻った。 そこから数年が経ち小田原征伐のときに豊臣軍に落とされ、徳川家が関東に入封すると井伊直政が入り井伊家が治めたという。 このような激戦地に築かれた平山城は、あまりに大きく緻密な縄張り。 様々な経路から小さな郭などをみることができ、大きな堀切も特徴的だ。 鍛冶曲輪、三の丸の石垣の野面積みは圧巻で三の丸の石垣は当時4mを超えたとも、 本丸も広い敷地がありその奥に、かの長野業盛らが自害したという御堂曲輪がある。 城将らの慰霊碑があり、是非拝むべき。 様々な経路があり、どこから登るかも楽しい。 10月最終日曜日には武田軍と、長野軍の激闘を示した「箕輪城まつり」が毎年開催され、私はいけなかったが是非行ってほしい。 長野氏の治世は六十余年に及び、かの武田信玄公も「かの者(長野業政)がいる限り箕輪が落ちることはない。」といったそう。 長野業政は民に対してよい政治を行う、領主だったという。
少々文は長くなったが、是非行って...
Read more箕輪城主 長野業政(正) 戦国時代中期、上州の黄斑(虎の意)として名高い武将であり、箕輪衆を結成し上野国衆をまとめ上げ、あの武田信玄の数度の侵攻にも屈せず全て追い払ったという(諸説あり)、知略武略に優れた誉れ高き名将。
1561年、長野業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。」と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや武田信玄は再び西上野への侵攻を開始。 1566年、武田軍2万に対し長野軍1500、箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し長野業盛(業正の子)は自刃して果てた。 その後は武田氏が治めていたが、1582年(天正元年)の織田信長の甲州征伐で武田は滅亡し、織田の重臣、滝川一益が城主となる。 しかし同年、本能寺の変で織田信長が討死すると、天正壬午の乱で北条氏政が滝川一益を破り、弟の氏邦が入城する。 天正18年(1590年)...
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