宗派は天台宗で本尊は釈迦如来、鉄筋コンクリート造の本堂はわざわざ見に来るほどのものではありませんが、江戸時代後期に再建された妙見堂は悪くない見ごたえです。仏堂でありながらも権現造の神社建築で、武蔵・上野・越後で活躍した名工・熊谷(小林)源太郎の彫刻が社殿に華やかさを添えています。 妙見堂に祀られている妙見菩薩は北極星ないしは北斗七星を神格化した道教の神で、中国で仏教と集合して日本に伝えられました。仏教における「如来」に次ぐ位階である「菩薩」と呼ばれているものの、本来は「菩薩」の下の「明王」のさらに下、「天部」にあたるとされています。天部は江戸時代の武家社会における外様大名のようなもので、要は仏教以外から仏教に取り入れられた神様で、元はインド神様である帝釈天や弁財天も天部となります。 妙見菩薩の妙見とは「よく見る」あるいは「見通す」ことで、参拝すれば眼病平癒や勝負どころを見極める眼力を得るなどのご利益があるとされています。今となっては千客万来の風でもありませんが、東国における妙見信仰のはしりと言うべき寺院であり、妙見本宮を称する千葉神社の御祭神は、ここ妙見寺より勧請されています。由緒からすれば意外とすごいお寺です。 遠路はるばる訪れるに足る見ごたえとは申しませんが、古代史好きなら上野三碑に上野国分寺跡、綿貫観音山古墳とその出土品(国宝)を展示する群馬県立歴史博物館など、近世社寺建築好きなら少林寺と榛名神社(ただし二〇二五年まであちこち修理中)に貫前神社、近代日本の発展に思いを馳せるなら富岡製糸場と、周辺の見どころはたくさんあります。それらとあわせて訪れるのであれば、十分...
Read more桓武平氏の系統が信仰している北極星を神仏として見立てた北信信仰の宗教施設です。 現代でもしっかりと管理されていて立派な建物と夏祭りや秋の行事など頻繁に周辺住民を含めて利用されています。
1000年以上前に平将門の一派が、当時の上野国の中枢機関である上野国府を占領して自分の派閥に占領させた跡、自らを新皇と称して東国の独立を宣言した後に、朝廷から討伐を指示され追ってきた平良文とすぐ近くの染谷川(引間付近)で戦ったそうですが、押されていた良文軍が妙見様に祈ったところ顕現して、将門軍は敗走したそうです。
元は同じ天皇のひ孫から民間人になって続く親族同志、同じ神様を信仰していても、神様はどちらかを選ぶんですね。
その関係か、染谷川は地元の人の中には血染め川と呼ばれていたそうです。 平和の今は想像もつきませんがこんな田舎で人も人とが衝突して激しいやり取りがたくさんあったのでしょう。
このエリアに限らず古代〜中世以降関東各所を支配していた人たちは、地元で代々いついていた土着の豪族ではなく、上方の天皇の系統から離脱した人たちが領地として割り振られ関西から移ってきた人たちだったわけですが(それ以前に居た人たちで朝廷に従わない人たちは”蝦夷”として僻地に追いやられていったのでしょう)、生まれた土地を遠く離れてあまりよく知らない田舎の土地で、命を取られるかもしれない戦いをしながら生きている、そんな世の中でも毎夜空にいつも同じ場所で輝く北極星を心の拠り所にしたというのは、気持ちがよく...
Read more承平5年(935年)平将門は、ひとりの女性をめぐって源護(みなもとのまもる)と争い、護に味方した平国香(たいらのくにか)を攻めようと、上野の国府に殺到しました。 当時の上野国府は元総社付近にあり、国香は当時そこに居たからです。 この時、国香の弟である平良文も参戦し、染谷川を挟んで、現在の妙見社の辺りに陣を構え、将門の大軍と対峙しました。 平良文は、のちに総社付近を領する千葉氏や長尾氏の祖と言われています。 両軍は一触即発の状態でしたが、連日の大雨で染谷川は増水し、互いに渡って攻めることができませんでした。 国香側は地元でもあり、糧食にも不自由しませんでしたが、将門側は次第に疲弊し、士気も低下しました。 この機を逃さず国香は密かに川を渡り、将門を急襲。将門軍は算を乱し、下総に退却して行ったといいます。 将門と護が命を懸けたほどの女性…さぞや美しい人だっ...
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