枚方市から車で往きは西大津バイパスから真野インターから下りて、国道477号を西進、国道367号に合流し、あとはひたすら道なりに進むだけ。途中名神高速道を利用しましたが、道は混雑しておらず自宅から1時間半程度で到着できました。 お寺の入り口は、国道367号を進んでいると右手に興聖寺と書いた大きな案内看板が立っていますので、国道から外れ左斜めの道に入りますが、駐車場入口は入って直ぐ左手にありますので注意してください(利用料は無料)。 駐車場は白線は見えず数えることは出来ませんが数10台はとめれそうな結構な広さです。訪問日は3月の祝日でしたが、天候が悪かったせいなのか11時ごろ到着で駐車していた車は私のみでした。ちなみに帰りは2台増えていましたが。 到着場の写真を掲載しておきます。写真の様子から広目の駐車場がお分かりになるかと思います。 駐車場から階段を使って歩けば2分か3分ほどだったと思いますが短い距離で興聖寺に到着です。歩いている途中で拝観料が300円とかいた看板を見かけ、お寺の玄関で呼び鈴を鳴らすと案内の方が出て来られ、お寺のなかをご案内いただきました。 訪問の目的が足利将軍ゆかりの庭園を観ることでした。庭園についてはテレビでたびたび紹介されていて関心もあり多少の予備知識を持っていたつもりでしたが、まさかお寺のなかを案内いただけるとは思っていなかったのでとても嬉しかったです。この時も訪問客はわたし一人でしたが丁寧にご説明くださりました。 寺にまつわる歴史から、足利義輝の家臣として興聖寺に滞在したことがあるという細川藤孝の子孫でいらっしゃる細川元総理のお寺訪問の際の写真や宇多天直系佐々木家の菩提寺として建立された歴史から秋篠宮殿下が学習院の高校生時代にご訪問された写真が掲げられています。 本尊の釈迦如来座像(国重文)は藤原頼道が甥にあたる一条天皇の皇子が亡くなった際に供養のため三仏のうちの一体とのことでしっかりと拝ませていただきました。 縛り不動明王は元々は楠木正成の念持仏であったそうですが、朽木時経が鎌倉時代末期にいまの大阪府にあった千早城を攻めた際に兵火にあわんとするのを避けるため当寺にお移しおまつりしているとのことです。こちらの明王様もしっかりとおまいりさせていただきました。楠木正成が念仏している姿を何度もとらえたであろう玉眼を見つめながら、楠木正成の壮絶な歴史の舞台に想いが巡り、いまの時代にもこうして不動明王を拝めることになんとなく不思議な感覚を得たおもいです。 本堂の外はあいにくの雨。しかし四阿がありましたので、四阿の中からゆっくりと庭園をめでることができましたので良かったです。なお庭園の周りは行き止まりになっていましたので、少し離れた位置からの鑑賞でしたが将軍の慰みのために作ったというだけあって豪奢な雰囲気をもった景色を形成していると感じました。 お寺の御説明では樹齢500年ほどのヤブツバキが綺麗に花を咲かせるとのことですので、4月に入ってからGW前に再訪しできればとおもいます。 因みに、帰りは吹雪の状態で、住まいの枚方では日頃味わえない悪天候のなかドライブをすることになりました。帰りは西大津バイパスを利用することなく国道367号をそのまま南下し、京都市の大原を抜け帰宅の途につきました。滋賀を出るまでは悪天続きで、路面が雪で積もるまでに至ることはありませんでしたがタイヤが滑らないか運転中不安でした。山での天候を甘くみていました。つぎの訪問時は天気のよい日を選んぶようにくれぐれも注意し...
Read more司馬遼太郎氏の、特に晩年の代表作となった「街道をゆく」の最初の作品「湖西のみち」に登場した朽木の名刹。「関西花の寺霊場」のひとつであり、藪椿がその「花」ではあるが、観光客を積極的に誘致するようなところはほとんどなく、静かにその歴史を守り訪れる人々をやさしく受け止めてくれるお寺。 かつてここには戦乱を逃れて室町幕府の12代将軍足利義晴が滞在した岩神館があり、みやこを離れて無聊をかこつ将軍のために当時の風流人である管領細川高国が作庭したとされている。その後、この地に朽木氏の菩提寺、秀隣寺が建立されたためにこの庭は旧秀隣寺庭園と呼ばれるようになった。秀隣寺はその後に移転、興聖寺がこちらに来たのはその後になる。つまり興聖寺についてよく言われる「道元禅師が越前永平寺に下向される途上で伏見深草の興聖寺にあまりに風景が似ているので、同じ興聖寺と名付けた」のは別の場所、ということ。ちなみにネットでは「宇治の興聖寺のある場所に風景が似て」と書いているところがありますが、あれは明確に間違い。道元禅師が建立した興聖寺は伏見深草にあり、その後に廃絶。いま宇治にある興聖寺は江戸時代になってから淀城主の永井尚政により再建されたもの。
駐車場はかなり広い。安曇川右岸の国道を北上すると左手に看板が見え駐車場の存在が確認できる。そこから階段を登ると、安曇川が形成した河岸段丘の縁に緑に包まれた美しいお寺が現れる。お寺のささやかな山門前には、この村の出身で国のために戦い斃れた兵士のお墓が並び、静かに故郷を見つめて鎮まっているのが見られる。門を入ると左手に「旧秀隣寺庭園」。京都などの有名観光寺院のような整備されつくした庭とは違い、自然と一体化したような美しさ。人の手、技巧が歴史を経て自然に溶け込んでしまったような。 本堂の右手の受付で拝観を申し出ると、住職さんの奥さんが堂内を案内して下さる。本尊の釈迦如来坐像、霊牌堂にお祀りされている不動明王像が名品。いつまでも見飽きない...
Read more興聖寺は曹洞宗(本山永平寺)のお寺です。この朽木の庄を治めていた朽木氏の旦那寺で、前にある安曇川の反対側にあった興聖寺が秀隣寺が近くの丘に移転した後地に移ってきています。本尊は釈迦如来坐像ですが、一条天皇の皇子が10代の若さで亡くなったので、釈迦如来の顔を皇子の顔に作られていると住職は言われてました。朽木氏は近江源氏佐々木氏の分流の高嶋氏の有力庶家でありました。朽木氏は最後までこの朽木に移転させられることなく、同じ朽木に滞在していて、大変珍しいとされています。これは、大名家ではない、天皇家や足利幕府の避難所としての位置などの好条件により、同じ場所からうごかされることはなかったと言われています。なので朽木氏の子孫が今もこの地に住われています。戦国時代には、興聖寺の以前からあった秀隣寺のこの場所で、京都は幾度も戦乱に見舞われた為に、戦乱を避けるために室町幕府12代将軍足利義晴と13代足利義輝は、8年間朽木に滞在しています。朽木幕府といわれています。その時に作られたのが旧秀隣寺庭園(足利庭園)です。銀閣寺の庭園を基につくられています。室町時代の庭園がのこっているのは珍しく、福井の一乗谷朝倉氏遺跡や、米原の上平寺城の庭園、とここの足利庭園です。また当時の布積みの野面積み石垣も残っています。足利幕府はなぜこの地、朽木に避難先を選んだかは、朽木氏は足利幕府の奉公衆であった点、いざと言う時、味方する勢力のいる福井や山陰へ抜けることができる地点として選んだといわれています。アクセスはJR安曇川駅から江若バス35分、終点朽木学校前下車し、京都方面へ...
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