2025年4月12日。桜まつりをしていました。 立花宗茂の後を受けて元和8年(1622年)に棚倉藩に5万石で入封した丹羽長重は、それまでの赤館を避け棚倉盆地の中央にあった都都古別神社を遷宮し、その跡地に江戸幕府の許可を得て棚倉城を寛永2年に築城した。長重は寛永4年(1627年)に白河藩に移封され、諸大名の転封を繰り返した後、最終的には慶応2年(1866年)に阿部正静が6万石で入封した。棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加盟したため、慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争で板垣退助の率いる新政府軍800名の攻撃を受けた。当時、藩主阿部正静が白河に出兵しており、棚倉城は正静の父正外と僅かな城兵が守るのみであったため、6月24日にわずか1日で落城。正外は城を自焼して分領である保原に撤退した。...
Read more観光ガイドに推しとして掲載される様なスポットでは無いかも知れませんが、個人的にどうしても訪れてみたかったお城。というのも、地図でなんとなく茨城の久慈川の流域を眺めていたら最上流部に立派な内堀を湛えるお城があるじゃないですか!? えっ?ここ福島県なの?なんでこんな所に本格的城郭があるの?気になって調べると、戊辰戦争の戦地だったり、何かやらかした大名が目まぐるしく左遷されたお城だったりと何だか心に刺さるものが有ります。飾り立てた栄光の歴史って全くリアルじゃないですからね。 訪れてみるとギラギラした観光客を惹きつける要素は皆無なのですが、地元の方の憩いの公園的な日常な時間が流れていました。やはり内堀は圧巻なのですが、その掘削土の流用と思われる本丸を取り囲む土塁の規模も半端ない。段丘上にこの規模の堀を作るってかなり骨の折れる土木工事だったと思います。実際に戦闘が起こったという血生臭さも感じます。本当ならもっと時間をかけて、外堀の遺構とか城下町を...
Read more◎『細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕』 「十六ささげ隊」で有名な棚倉城
◎『東の本多忠勝、西の立花宗茂』と称され、徳川四天王の槍の名手・本多忠勝と並べられた『立花宗茂』が家康の嫡男・徳川秀忠の御伽衆となり1万石を与えられて赤館城主として大名に復帰した城跡です。立花宗茂40歳の年。
◎棚倉城は、常陸国(現茨城県)の平潟港から街道が通り、新政府軍にとっては、会津へ向う上で重要な位置(緊要地形)にあった。 戊辰戦争での棚倉藩は、奥羽越列藩同盟軍として、藩の主力が各地で戦った。中でも藩士阿部内膳率いる「十六ささげ隊」の活躍は、仙台藩「細谷からす組」とともに『細谷からすと十六ささげ、なけりや官軍高枕』と謡われるほど新政府軍から恐れられた。 慶応四年(一八六八)六月二四日、各地へ出動し手薄になった棚倉城下に、参謀板垣退助が率いる新政府軍総勢八八〇余名が大砲六門をもって進撃し、主力を欠く棚倉城は、...
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