このお寺は、いまは美しく平和そのものですが、長い歴史のなかで陰謀や抗争の舞台となってきました。 時は戦国時代… 館林城三代目の城主であった赤井照康は重い病を得て、病床に赤井七騎と言われた老臣達を集め、まだ十一歳にしかならぬ子の照景を補佐してくれるよう言い残しました。 老臣達は力を合わせ、よく照康の遺言を守りましたが、そのなかに毛呂季忠という者だけは、逆心を抱いていました。 ひそかに幼い世子を殺害し、我が子の内膳を取って代わらせようと企んだのです。 季忠は腹心の足軽大将たちを集め、館林城を急襲しようとしましたが、同じ老臣の小曽根政義は、かねてより季忠を疑い、密偵を使って様子を探らせていました。 危機を察知した政義は、葛籠(つづら)のなかに主君母子をひそませ、ひそかに城を脱出させ、照景には伯父に当たる足利岩井城へ落としました。 これを知った毛呂勢は大いに怒り、小曽根の鉢形城に攻め寄せて落城させ、季忠は館林城に入りました。 戦いに敗れた小曽根勢は岩井まで退き、新たに援軍を得て、館林へ向かいました。 この抗争は、近隣の武将達も巻き込んで、大きくなるばかりだったので、茂林寺を始めとする五寺は相談の上、民の苦しみを考え、調停の労を取ることにしました。 その条件が、毛呂側に有利なものであったので季忠も承知し、この善長寺で和睦の会合が持たれました。 しかし、これが実は巧妙な罠であり、善長寺の周囲は、ひしひしと兵によって取り巻かれていました。 満足して寺に出かけた季忠は、自分が欺かれたと知ると、歯噛みして悔しがりましたが、いまとなっては逃れようもなく、自刃して果てたといいます。 寺の僧達は、たとえ反逆を企てた者でも、死者となれば仏であると、寺内の墓地に季忠を懇ろに埋葬しました。 時代は下って…幕末。 その頃住職であった寛令は、檀家であった館林藩の林庄左衛門、岡村宗左衛門と親しく交わるうちに、佐幕派の彼等の思想的ブレーンとなりました。 両人とも藩の要職にありましたが、いつしか寛令に心酔し、まるで彼の手足になったように、言うがままに動くようになりました。 寺の奥深く、ひそかに彼等の会合が持たれるたびに、勤王派が次々に失脚するので、いつしか藩内で寛令は「黒衣の宰相...
Read more曹洞宗のお寺さん。 城沼を前にした、風光明媚なロケーション。御門から見える蓮の葉が太陽に輝き、さながら極楽のよう。 さすが徳川四将、榊原氏由縁のお寺さん。
境内の中央、江戸中期以降の墓石と石仏さまが集められており、供養されている。当然、無縁さんもあるところ、捨てるというのではなく、ご供養されている。 これを見てわたくし、こちらのお寺さんが、大好きになりました。 肉身も大切なのですが、そこまでに連なる有縁、無縁の方々を大切にすることは、同じく大切。 なぜならお寺さんが、われらに至るが、われらの目にハッキリとは見えないご縁の糸を大切にしてくださっているということですから。 こんな姿勢をさりげなくお示しいただくと、われら肉身もえりを正さないといけません。 今日は法事で時間がなかったので、泣く泣くお寺さんを離れましたが、次は、時間をかけ...
Read more尾曳稲荷神社から車で1キロ。 池のほとりにある善長寺に参拝しました。 とても綺麗で整備されたお寺だなと思っていましたら、数年前に建て替えをしたとの事でした。 門から参道、本殿、庭園等もすべてが新しく、少し驚きました。
その為か、本殿に賽銭箱が見当たりません。 なんと、本殿の戸の手を入れる場所がスライドするので、そこの奥に賽銭箱があるから入れてくださいとの案内が、小さな紙に書かれていました。 きっと心ない方がいたので、対応策でこのようにしたのではないかと。 なので鈴などはなく、静かに手を合わせるだけでした。
御朱印はあるのですが、社務所がないために他の玄関の呼び鈴でお願いしました。 今はコロナの影響で、近々に御朱印はできなくなると言われました。
ちなみに七福神の福禄寿がき...
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