群馬県館林市尾曳町に鎮座している、尾曳稲荷神社、2024.11に参拝致しました、どの様な神社か引用を用いて調べて見ました、御祭神は倉稲魂命、合祀祭神は誉田別命・素盞鳴命・倭建命、花の館林七福神霊場、弁財天。尾曳稲荷神社の創建は戦国時代の天文元年(1532)、当時の大袋城の城主赤井照光が尾曳城(後の館林城)を築城した際に勧請したのが始まりと伝えられています。 伝承によると享禄元年(1528)の正月、照光が年賀の挨拶などで当地を訪れた際、子供達に虐められた子狐を見つけ救い出すとその夜一人の老人が現れ、この地は要害堅固の霊地であるから大袋城を廃棄し新たに城を築く事を強くすすめました。翌日一匹の老狐が現れ尾を引きながら必死に城の縄張りし、この城が如何に優れているかを告げ自ら城の守護神になることを約束して姿を消したそうです。照光は神意と悟りこの地に新城を築き尾曳城(館林城)と名付け、本丸から見て北東(鬼門)の方角に稲荷郭を設け社殿を造営し鬼門鎮守社としました。 以来、尾曳稲荷神社は歴代館林城の城主から崇敬庇護され、特に天正18年(1590)に徳川家康の関東移封に伴い当地に配された榊原康政が篤く信仰し尾曳稲荷神社の社殿を再建しています。正保元年(1644)に松平乗寿が入封すると引き続き庇護され正保2年(1645)には社殿の修築が行われています。 尾曳稲荷神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、平入、桁行4間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り、懸魚には鳳凰、向拝木鼻には獅子、欄間には龍の精緻な彫刻が施されています。 本殿は一間社流造、正面千鳥破風、銅板葺、1間唐破風向拝付、木部朱塗り、三方浜縁、高欄、隔板付。社殿は現在でも館林城を守護している事から西側(館林城)を向いています。神楽殿は入母屋、桟瓦葺き、平入、正面千鳥破風、高欄朱塗り、普段は吹き放しにせず建具によって解放される仕組みとなっています。尾曳稲荷神社の社宝である秋元泰朝所用具足(卯花糸威金箔伊予札胴具足)は元々は館林藩(藩庁:館林城)の藩主秋元家が所有し、館林城三の丸に設置されていた千貫門(櫓門)の上層部に置かれていましたが、明治4年(1871)に廃藩置県により館林藩が廃藩となり、それに伴い館林城が廃城になると瓜内稲荷神社の御神体として遷され、さらに瓜内稲荷神社が尾曳稲荷神社に合祀された為、当社に遷されました。 因みに秋元泰朝は秋元家2代目当主で、総社藩2代藩主、谷村藩初代藩主、具足は慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際に着用したものと伝えられています。歴史的建造物、仏像、仏閣、神社巡り、日本庭園、絶景、景色撮影、パワースポット、癒し処、観音霊場諸願成就、祈願、群馬県館林市観光、御朱印集め等好...
Read more『尾曳稲荷神社』 住所→ 〒374-0019 群馬県館林市尾曳町10−1
祀神:倉稲魂命、誉田別命、素戔嗚命、日本武尊
御朱印:あり 駐車場︰あり
備考︰ ・創建年代は、天文元年(1532年)の頃
・尾曳城(後の館林城)の城主である『赤井照光』が城の鬼門に当たる稲荷郭の地に守護神として創祀したらしい
・『狐の尾曳伝説』というものがあり、由緒書きによると……
『大袋城(城沼南岸)城主赤井山城守照光、年賀の途次童子らに捕らえられた狐児を救った、その夜明一老翁が顕れ、子狐が助けられて礼を述べ、館林が要害堅固の地と説き移転を奨めて姿を消した。その年の七夕の夜に老孤が顕れ、尾を曳いて城郭の縄張りを先導して夜が明けた。別れに際し「築城完成の暁は長く城の守護神に使えよう。私は稲荷の神使新左衛門である。」と言い終わるや姿を没した。照光はこれによって築城し、その名も尾曳城と号し、城中に稲荷郭を設け、社殿を造営して当神社を奉祀した。』
という、変わった伝説がある。
・わりと当時は妖狐や神狐が人に化けて歴史上の人物と関わり、伝説を残すことが屡々見られた
・同じ館林市にあり、『館林福岡線』を挟んだ地にある『夜明稲荷(〒374-0063...
Read moreこの神社には館林城にまつわる伝説があるそうです。 正保元年、松平和泉守乗寿(のりなが)は、遠州浜松から館林へ移封となりました。 新しい主君を迎え、町役人達は登城して祝いを述べるとともに、館林城の守護神である尾曳稲荷へ、いつ参詣されるかと伺いを立てました。 これに対し和泉守は「自分は主君であるから、領内の一木一草まで自分の物である。それは神仏にも及ぶもので、自分から参詣する気はない」と公言しました。 一同は、ただ驚き退出するばかりでした。 それから、まもない或る日のこと。 江戸表より急飛脚で、老中からの奉書が届きました。 何事かと和泉守が開いてみると、四代将軍が重病で明日へも知れぬので、急ぎ登城するべし」との事。 和泉守は早速、僅かな供を連れ、馬を飛ばして板橋へ到着。月番老中である阿部豊後守に、お見舞いに出府した報告の使者を立てました。 ところが、駆け戻った使者によると、豊後守は大層立腹し「将軍家にはお変わりなし。それを縁起でもない」と叱責されたとのこと。 そんな筈はないと、もう一度奉書を開いてみるとアラ不思議、文字は消えて白紙になっていました。 訳もわからず、和泉守はスゴスゴと館林へ戻るしかありませんでした。 これを聞いた町役人達は、さてこそ尾曳稲荷様がお怒りになったに違いないと噂し、和泉守も後難を恐れ、お詫び言上に参詣したといいます。 お稲荷様も、手酷いイタズラをするものです(^_^;) こちらの神社には、珍しい灯籠もあります。 「城郭破却記念の灯籠」というものです。 徳川綱吉は二十五万石の大大名として、館林に入封しました。この格式に相応しい城とするため、それから二年の歳月を費やして、北関東随一の偉容を誇る城郭が完成しました。 ところが、綱吉の後を継いだ徳松丸が早逝してしまい、後継者が無かったため、館林城は廃城と決まり、破却されることになりました。 徳松丸の葬儀が終わると、江戸から鳶職や石工などが召集され、領内から挑発した二千人もの人足が破却に当たるという、大工事となりました。 それでも、この名城を跡形もなく取り壊すには一ヶ月を要したといいますから、当時の城の偉容が想像されます。 この破却記念の灯籠には、無事に大工事が終わったという感謝の気持ちとともに、天下の名城を打ち壊さなければならなかった人々の、城への哀悼の思いが込められ...
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