4世紀中頃に築造された第8位の規模の古墳で、実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」として、日本武尊の父、第12代景行天皇の陵に治定されています。
ある日、垂仁天皇は五十瓊敷命とその弟の大足彦尊欲しいものを尋ねました。五十瓊敷命は弓矢を求め、弟の大足彦尊は皇位を求めました。その通りに兄は弓矢を与えられ、弟は皇太子に立てられ、後に景行天皇となりました。
即位4年、天皇は美濃国に行幸し泳宮(くくりのみや)に滞在し、後の成務天皇を産む八坂入媛命を妃としました。同時に、美濃国造の2人の娘が美人と耳にし、妃にするために大碓皇子(おおうすのみこ)を派遣しました。しかし、皇子は姉妹の美しさのあまり使命を忘れて関係を結んでしまい、天皇はこれを恨みました。
即位12年8月、熊襲(九州南部)が朝廷に背いたので征伐すべく天皇自ら西下しました。
同年10月、豊後国(大分市)で天皇に従わない土蜘蛛を討ち、翌月、南下して髙屋宮に留まりました。12月、襲国にいる強大な熊襲健(くまそたける)を討つため、『熊襲健の娘で二人に贈り物をして妃にし、熊襲の拠点を聞きだした上で奇襲する』という計画を立てました。すると、姉が兵を数人連れて父の元に戻り、酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させました。そこまでは考えていなかった天皇はその親不孝を咎めて誅殺し、その妹は火国造を送り飛ばしてしました。翌年夏に熊襲平定は完了しました。高屋宮に留まること六年、朝日を見てこの国を「日向」と名付けました。
即位18年、3月に都へ向け出立し、各地の首長を従わせ、土蜘蛛を誅殺し、翌年9月に都に戻りました。この九州巡幸は『古事記』には記されていませんが、九州にはこの説話が元になっている地名が多く残されています。
葦北(熊本県水俣市)に至った皇軍は小島に渡って食事をすることになりました。島に水がなかったため家臣が天神地祇に祈ると崖から寒泉(しみず)が湧き出してきました。そこでこの島を水嶋と名付けられました。半月後、葦北から船出しましたが、日が暮れてしまい岸の位置がわからなくなりました。その時、遠くに不知火が見え、それを目印に船を進め、無事に岸に着きました。しかし火については分からずじまいでしたが、その国を火国と名付けました。熊本県が『肥国』と呼ばれる所以です。
その後、とある地に至った天皇は麗しい山々が重なっている様子に感嘆していると、八女津媛(やめつひめ)という女神が常に山の中にいることを知らされました。この地は八女(福岡県八女市)と名付けられました。
後日、皇軍がある場所で食事をした際、料理を担当する膳夫が杯を忘れてしまいました。そこでこの盞(うき)を忘れた場所は浮羽(うきは)と言われ、訛って的邑(いくはのむら)(福岡県うきは市)となりました。
即位27年8月、熊襲が再叛したため、10月にわずか16歳の小碓尊(おうすのみこと)に熊襲征討を命じました。小碓命は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得て、翌年に帰還しました。
即位40年8月、天皇は大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じるも、危険な任務を拒否した皇子を美濃国に封じました。日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授かり、陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定しました。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛と結婚後、近江国に出向きました。そこで胆吹山の荒神に祟られて身体不調になりましたが、そのまま伊勢国に入り能褒野(三重県亀山市)で薨去しました。埋葬された後に白鳥となって飛び去り、途中で舞い降りた大和国と河内国にも白鳥陵が造営されました。天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだといいます。
なお、上記の件は『古事記』では内容が異なっています。
天皇は朝夕の食膳に来ない大碓皇子を参上させるため、小碓命によく教え諭すよう命じましたが、数日しても参上しませんでした。小碓命に聞くと既に教え諭したと答えたので、どのように教え諭したのか尋ねると「厠に入るのを待ち伏せして打ちのめし、手足を引き千切って投げ捨てた」と答えました。即位4年に美濃国で父の寵妃を奪った兄大碓命に対して恨みを持つ天皇の「教え諭す」という言葉を小碓命は勘違いしてしまったため、小碓命は兄を殺害してしまいました。天皇は小碓命を恐れ疎み、危険な遠征任務に送り出しました。熊襲征討後、すぐに東国蝦夷征討を命じられ、日本武尊は父親が自分のことを嫌いになってしまったと伊勢で嘆いています。
即位53年、日本武尊を追慕して天皇は東国巡幸に出ます。まず伊勢に入り東海を巡って10月に上総国に到着。上総国から淡水門を渡るときにミサゴの声が聞こえたので、天皇はその姿を見ようと海の中に入り、白蛤(うむぎ)を得ました。磐鹿六鴈(いわかむつかり)という者がすかさず、その白蛤を膾にして蒲の葉に乗せて天皇に献上しました。天皇はこれを誉めて御食を供する膳大伴部(かしわでのおおともべ)を与えたといわれ、「料理の祖神」として高家神社(千葉県南房総市)や高椅神社(栃木県小山市)などで磐鹿六鴈が祭られています。12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に纒向宮に帰還しました。
即位58年に近江国に行幸し、次代の成務天皇の都となる志賀高穴穂宮に3年間滞在し、即位60年1...
Read more渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん) 山辺の道を南に進むと、前方にキレイに草が刈られた古墳が見えてきました。いかにも古墳らしい古墳で、視界に全体が収まり分かりやすい。 そして右手に見える小山のような丘が渋谷向山古墳でした。 墳丘長が300mもある前方後円墳とのことで、鬱蒼とした木々に覆れています。 全国第8位を誇る規模の古墳で、宮内庁により第12代景行天皇の陵に治定されています。 以下、現地説明板より 渋谷向山古墳 (古墳時代前期) 渋谷向山古墳は天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「景行天皇陵」として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む周辺の古墳3基が陪塚に指定されています。 墳丘は全長約300m、後円部径約168m、前方部幅約170mを測り、前方部を西に向けています。古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳です。 墳丘の形状については諸説ありますが、後円部4段築成、前方部3段築成とする見方が有力です。また、周濠は後円部側6ヶ所、前方部側4ヶ所の渡り堤によって階段状に区切られていますが、現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものです。 これまでの宮内庁書陵部の調査等により、普通円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が確認されています。このほか、 関西大学所蔵の伝渋谷出土石枕が本古墳出土とされたこともありますが、 詳しいことは分かっていません。また、渋谷村出土との伝承がある三角縁神獣鏡の存在も知られています。 渋谷向山古墳の築造時期については、埴輪の特徴から古墳時代前期後半 (4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、先に築造された行燈山古墳...
Read more誰が造ったんでしょう?現在の歴史の常識では初代・神武から十四代・仲哀までの天皇は架空の存在とされているんですよね。ここを調べて本当に景行天皇の陵墓だと実証されたら歴史学者は廃業するしかないでしょうね。景行天皇は十三代の天皇とされ、その皇子はヤマトタケルということで有名ですよね。うーん、興味深いなぁ。ヤマトタケルは、日本武尊と書かれますけど、正しくは、倭建命(ヤマトタケルのみこと)になるんです。皇族に苗字が無いのは当然でして、古事記でもタケルという名はクマソタケルを倒した時にその名をもらったことになってますよね。苗字のヤマトは、出身地の地名で、奈良あたりは倭と書いてやまとと読んだんです。日本という国名は天智天皇が第二回の遣隋使が届けたとされる国書の一文「日出づる国の~」を参考に命名したとされ、当然、ヤマトタケルの時代とは合わないんです。(景行天皇と天智天皇では400年の開きがある)又、倭を大和に改めたのは天智天皇の娘にあたる元明天皇で、中国が日本という国名を認めずにずっと「わ」と呼び続けたのに腹をたてたんでしょうね。(勝手な憶測ですが)だから、日本をやまとというのは間違いになるんです。す...
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