多摩丘陵の北端。以前は晴れた日には所沢、西武ドームまで見えました。砦としての立地も良いことが判ります(現在、木立ちで視界は悪い)。季重神社からの眺望は木に遮られるので、一つ東側にある階段から見る夜景は最高です。
中世の山城なので石垣とかを期待して来ると裏切られます。しかし、中世城郭ファンには興味が尽きないでしょう。 車でくると平山台小学校入口を曲がって上ると、直ぐ。但し、見学者用の駐車スペースは頂上に数台分。中世の山城を体験したい向きには、京王線平山城址公園駅で降りて麓から山道を徒歩で上るのが良いと思います。注意して見るなら、虎口や、平場(梯郭)かあることが判ります。
この地に砦を構え、麓に居館(発掘調査記録有り)を築いた平山季重は武蔵七党の一つ、西党の出自。太平記には、熊谷直実と共に名を連らねます。季重神社は別名「妙見神社」です。
妙見信仰は北斗七星を崇めますが、興味深いことに西党の先祖は、星辰信仰を縁(よすが)としており、その西党の先祖「日奉氏」の墳墓が日野市東光寺(現日野市新町)上の七ツ塚であると言われています。城址から遥か遠くに確認することも出来ます。 これ又興味深いことに、現存する4基の円墳がある土地の所有者立川氏の菩提寺(立川氏居館跡)にある立川氏墓所にある石碑に銘打たれている家紋は「七星紋」です。立川氏も西党の末裔です。
七ツ塚古墳群は平山城址公園の真北、多摩川の段丘上にあります。現在、残っている墳丘は4基のみ。しかし明治時代に、自ら西党の子孫であった立川民蔵が表わした「西党事績考」と、今は亡き郷土史家、谷春男氏から直接取材して得た「日野自動車体育館を建てる時、塚が壊され、報告を受けた古谷郷次郎氏が駆けつけ、墳墓に用いられていた石を他の塚(昭和29年発掘の墳墓)のある土地に移動した」との証言を総合すると、七ツ塚古墳群は鳥瞰すると北斗七星をかたどるように配置されていたと考えられます。民俗学者柳田国男の「七塚考」も日本各地に同様の小塚群が存在すると述べています。
平山城址公園から北面を眺望しつつ、悠久の日本史を思...
Read moreよく整備された公園としての評価はできますが、名称が誤解を与えます。
平山城址というからには、ここがあたかも平山城にあった跡の様に印象付けますが、平山城には全く関係しません。公園域外にある末重神社の箇所に見張り台があった、かも知れないと伝わるのみです。
平山城は城ではなく砦の様な位置づけであり、武蔵七党の西党:日奉(ひまつり)氏が出自である平山氏が居を構えていたのは麓の平山城址公園駅のロータリー東側(石碑の建っている箇所ではない)。
有事の際には砦に籠る算段をとっていましたが、それを平山城とするのであれば、浅川の対岸にある八幡神社(西平山一丁目)がその跡になります。
平山の砦は、平成の代までは遺構として外構含め何となく残っていましたが、区画整理などで一気にその遺構は無くなりました。今では八幡神社としてその名残を残すのみです。何となく大手口は判る程度でしょうか。
インターネットに記載されている情報は間違えが多く、考古学的な発掘と判断がまとめられた書籍を日野市教育委員会が作成して日野市立図書館に所蔵されています。平山城のことを知りたい場合は図書館でリファレンスサービスを受けると良いでしょう。
日奉氏は、平安時代に京から國司として任地である府中に赴き、役目を終えても帰らず、府中の西側に土着したことから西氏を名乗り、その一部が平山氏を名乗ったとされます。
後年西氏は平山氏と共に筑前(福岡県)の任地に移った記録があり、九州の西氏や平山氏との...
Read more平山城址公園駅からかなりの急坂を登っていきます。 するとある程度整備された山に行きつきました。 雪が降った後がまだ残っています。 結構な急斜面。 さて、どこから登るのかと歩いてみるとしっかりと整備された階段がありました。 石でしっかりと整備されていて歩きやすいです。 石の階段も綺麗に整備されていて登りやすいです。 登ったところには見張り台があります。 この平山城はお城というよりも下の館とつながる見張り台だったようです。 雪はまだ少し残っていますが、歩きやすいです。 それほど標高が高いわけではないと思いますが、日野市の方がよく見れて景色は非常に良いです。 途中にある少しへこんだところは堀切ではないかなと思うのですが、遺構なのかは分かりません。 少し歩いて南側の斜面に出るとこちらがちゃんと整備された平山城址公園でした。 お城というよりは庭園のような感じで、整備も行き届いています。 小川が流れ、苔むしていて、非常に趣のある景色です。 薬科大や京王の研修センターがあり、なかなか普通の人は来ない場所かもしれません。 駅からもそれほど近くはないのですが、ひっそりと...
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