遺構の見応えとしての評価。
2025年6月に訪問。 予め他の口コミより遺構は何もないという話は読んでいたが、それでも多少の凸凹や地形の変化はあるだろうと期待。結果、思っていた以上に遺構は何も分からなかった。。。
案内板が多めなのが救いか。 とりあえず堀跡と思われるあたりをウロウロしたのみ。
以下、案内板より 葛西城は中川右岸に沿った標高1~2m前後の微高地上に占地し、その範囲は青戸8丁目宝持院付近から青戸7丁目慈恵医大青戸病院付近におよぶものと推定される。
葛西城址は昭和47年(1972)から環状7号線道路建設に伴い発掘調査が実施され、 戦国時代をはじめとする陶磁器や漆器椀等の木製品を多量に出土した。葛西城から出土した多量の遺物は、今まで古文書や絵巻物でしか想像できなかった戦国時代像を研究する上で、欠くことのできない貴重な資料としてその名を全国的に知られている。
葛西城の立地する葛西地域は、中世において秩父平氏の流れを汲む葛西氏によって治められ、私領の一部は伊勢神宮に「葛西御厨」 (かさい みくりや)として寄進されている。葛西城の築城がいつ頃なされたかは古文書からも定かではないが、中世におけるこの辺一帯の政治情勢や出土した遺物から、15世紀中頃と推定される。15世紀末、伊豆、相模方面を舞台に台頭してきた後北条氏は北条早雲の子、北条氏綱によって関東進出が企てられ、天文7年(1538)葛西城は氏綱の手に陥落、下総に勢力を張る足利義明に対する構えとして整備されたことが知られる。その後、葛西城は16世紀末まで存続するが、天正18年(1590) 小田原の役における後北条氏の滅亡と同じくして葛西城も落城し、中世城郭としての役目を終えるのである。
近世初頭、徳川家康の江戸開府後、葛西城跡地には青戸御殿が建てられる。青戸御殿は秀忠、家光の三代にわたって鷹狩等に利用された後、明暦3年(1657) 頃取り壊されたといわれている。
また、葛西城は中世の城館跡として名を馳せているが、葛西城の下には今から1600 年程前の古墳時代の住居跡や井戸跡、多量の土器等が発見されており、当時のムラが埋没していることがわかっている。土器の中には遠く東海地方から運ばれてきたものがあり、...
Read more星3つは単なる公園としての評価です。室町時代に落城したとありますが、築城されたのは平安時代か鎌倉時代になるんでしょうね。練馬区や板橋区辺りに勢力があった豊島氏のことを調べていたら「葛西氏」というのが出てきたんだけど、その分家か親戚筋になるんじゃないかな?それと、城跡という呼び方は違う気がする。平安時代であれば荘園領主ということになり、城ではなくて居館と言った方が正しいかもしれない。それというのも、城と聞けば名古屋城や姫路城のイメージが強いでしょうが、それが建てられるようになったのは安土桃山時代以降で、それ以前は居館か砦のようなものだったそうです。さらに付け加えるなら、城下町と呼ばれるようになったのは秀吉が大阪城を築城してからで、それ以前は居館に寄りそって家臣たちが住んでいたため「寄居」と呼んでいたそうです。江戸城にしたって、今の北の丸公園あたりに江戸氏の居館があったらしく、太田道灌はその居館を約10倍に広げたそうで、家康はさらにそれを10倍に広げたと言われてますから、それを考えるとやはり居...
Read moreWorth of visiting if you’re passing by or just walking. As it mentioned on a note - there’s no visible ruins. Just a place mark where castle...
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