小さな境内だけれども、立派な参集殿はあるし、授与所も社務所も備わってて、本殿も威厳のある意匠。昭和の戦前から戦後にかけて、ここらへんにあった白山だの高木だのたくさんのお社をまとめて、中川べりに建つ洗練された境内の神社。もともとこの辺りは中世以前の城跡を取り巻いていた集落で、あずき色で輪郭した参集殿はよく目立つ存在。京成電車の青砥駅を降りたら、ひたすら中川の土手に向かって歩けば、畦道をそのまま舗装したような路地の中に見えてきます。社殿と参道は南面していますが、西側から入ることもできます。目立たない神社ですけど、カエルのキャラクターや、うさぎイラストの子ども用"けんこうちえお守り"をグリーンとピンク2種、金糸刺繍のお守りなどをしっかり揃えており、オリジナル御朱印帳まであります。(室町の頃のある夜、この青砥のお城のお殿様の藤綱公が当時城下にあった滑川とゆう水路に銭10文を水ポチャしてしまったんですが、家来に50文で松明を買わせて照らし出して探したそうです。それで終わればバカ殿さまなんですが、藤綱公は「沈んだままであっても50文で需すれば銭の流通が生まれて、合計60文(差文40)が世の利益になる」と諭したとする)滑川銭拾い伝説を表紙にしてあります。智君・藤綱公が松明もって水路を照らす場面が表紙にしてあるものです。 「藤綱松明」のイラストでもあしらったお守りもあるにはあるのですが、これがまたB6版を裕に超える大きさで、馬鹿デカいの。普通の大きさの肌守り(金運)も企画していただきたいものです。クルマの方は、環七外回りから青戸七丁目東の信...
Read more環七通りから中川に向かって折れると、さほど遠からぬところに鎮座しています。立派な社殿に、境内には参集殿なども持つ、都会の立派な鎮守様というところです。駐車場はなし。
当社のウェブサイトには、神社の歴史として「三社明神(稲荷・白髭・諏訪)と称し、この里の鎮守神と祀られた様子が天正丙子年(1576)頃から文献等に見え」、その後「明治の御代に入り、詔によって神社の正実を明らかにすることとなりました」とあります。 ー明治5年 社名を「白髭神社」と改称 -昭和18年 旧青戸4丁目鎮座の白山神社を合祀し、「青砥神社」と改称 -昭和35年 旧青戸町内に鎮座せる高木神社・八幡神社・北野神社・葛葉稲荷神社・水神社を合祀 -昭和45年~55年にかけての環状七号線の整備により、葛西城址鎮座の青砥藤綱神社を合祀
当地は現在「あおと」と呼ばれますが、かつては「おうと」。はっきりした語源は不明ですが、「と」は船着き場のようなものを指すという説もあり、中川下流の「おくど(奥戸)」=「おうど」と、同一の地区名であったかも知れません。 いま字面上「青砥」となっており、社伝にもあるように、鎌倉中期の武士「青砥藤綱」との関わりが示唆されています。ただし、彼は多分に伝説的な人物であり、『吾妻鏡』などの史料にもまったく登場しないので、当地を所領としたり、その名を土地に残した証拠はありませんし、「青砥」の用字は、青砥藤綱伝説以外で使わ...
Read more青砥神社 葛飾区青戸に鎮座する青砥神社は、近隣の青戸村の鎮守で、安土桃山時代の天正4年に創建されたといいます。 白髭・諏訪・稲荷を相殿で祀っていたことから三社明神社と称された時期もあり、その後、昭和初期から中期にかけて付近の神社を合祀し、祭神は九柱となり青砥神社と改称したという経緯があるようです。 ご祭神は、猿田彦命、健御名方命、宇迦之御霊命、伊耶那美命、高皇産霊神、誉田別尊、菅原道真公、彌都波能目神、青砥藤綱公の九柱です。 彌都波能目神は日本における代表的な水神です。 青砥藤綱公は鎌倉時代後期の名判官といわれた方で、「太平記」などにその名が見られ、江戸時代には歌舞伎や文芸作品の題材として人気を博していたとのことです。 御朱印には「葛西城址御殿山」と記されますが、最寄りの京成青砥駅から歩いて来る途中、「葛西城址公園」の脇を通ることになります。近くを通る環状七号線敷設工事の際、1972(昭和47)年に発掘調査が行われ、青砥神社近くから堀・井戸跡等や陶磁器・漆器等が出土しており、中世の城郭が存在していたことが明らかになったとのことです。 境内は広くはありませんが、よく整備されていて緑も多く、とても気持ちの良い空気が漂っています。立派な2本の銀杏と、御神木のスダジイがシンボルとなっています。 御朱印は参集殿横の授与所か、本殿横の社務所で頂けます。初穂料は500...
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