戦国時代の土佐の守護大名の大平家本拠
源氏旗揚げの時は、200人で源頼朝の軍に参加 (当主*近藤国平)
鎌倉の後家人に成った駿河、遠江、三河、伊予、阿波、土佐に一族は、散らばり
国平本人は、讃岐国主となったが
最も勢いがあった子孫が国平の四男で大平国盛の土佐大平家
室町時代中期には、9000人の家臣が居て
室町時代末期には、6000人の家臣が居た(本家が土佐一条家に滅ぼされて)残った分家が🆕当主を選び直す時に覇権を争い同士討ちして兵力を減らした
同士討ちで疲れた大平家を長宗我部家などか狙ってきた
🌟🌟蓮池城の興亡
ここに城が定められたのは、嘉応2年(1170)平氏の家人の近藤家綱👈蓮池家綱と同一人物(蓮池権頭)が、平氏荘園の守護として居城したのに始まり、その後源頼朝の討手に滅ぼされた。
建久3年(1192)近藤国信や近藤国盛の子孫が居城して大平氏を名乗り、広大な勢力圏を形成し、文化面でもすぐれた活躍をした。
天文15年(1546)、幡多一条氏が東進し、大平氏を滅ぼし、一条氏の番城となったが、弘治3年(1557)には本山氏が一条氏を撃退して城を奪った。
永禄3年(1560)、長宗我部氏と本山氏の争いが起こり、これを機に一条氏が城を奪回した。
永禄12年(1569)弘岡城主吉良親貞が一条氏を追い、その子親実が城主となったが、長宗我部盛親の継嗣問題で元親の逆鱗に触れ、親実は自刃し、こうして400年余、戦国武将が興亡を繰り返してきた蓮池城の歴史は、幕を閉じた。”🌟🌟
🌟🌟讃岐の国主にして源頼朝の重臣の近藤国平 (13歳の源頼朝が尾張で平家方に捕まった時も側近として同世代の国平が居た)主従は、平家により別れ別れに成ったが
成人して頼朝が伊豆で旗揚げする時も畠山重忠と共に両脇を固めた
石橋山合戦では、大庭景親の兵に追われる頼朝を守り洞窟でやり過ごし伊豆を脱出したが大敗して源氏軍の優秀な家臣を無くした(旗揚げ最初の敵)
平家打倒後に讃岐の国主に
🌟🌟近藤国平の長男(国重の子孫は、今川家重臣にの近藤忠用と長男の近藤 康用など) 近藤康用の生年月日と子たち
永正16年(1517年) - 天正16年3月12日(1588年4月7日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
子に秀用、用豊、用成、用忠、用政、中野三信、勝用
🌟🌟近藤国平の次男🌟大平元国(元国の次男が三宮義国、孫が戸波重国などを輩出)👈大平元国と同一人物
🌟🌟近藤国平の三男🌟大平国信(国信の子孫に田原光俊・秀幸の兄弟(双子)
斗賀野光興・河間光綱・三野光雄・中村信義・佐川光顕・岡林信靖の6人の兄弟など)のちの土佐大平家重臣になる一族👈
※河間光綱は、現在の姫路に入り河間姓に👈大平光綱と同一人物
※三野光雄は、讃岐の三野郡に入り三野姓に👈大平光雄と同一人物
※中村信義は、土佐播多郡(はたぐん)中村に入り 中村姓に👈大平信義と同一人物
※佐川光顕👈大平光顕と同一人物の子孫は、関東に進出して徳川家に従い保科家➡会津松平家 【佐川 官兵衛(さがわ かんべえ、 天保2年9月5日(1831年10月10日)-明治10年(1877年)3月18日)は、幕末から明治時代の武士(会津藩士)、警察官。諱は勝、清直。
※岡林信綱👈大平信綱と同一人物は、大平家侍大将に👈土佐から出た信綱の子息の子孫に
岡林 直之(おかばやし なおゆき、延宝7年(1679年)...
Read more7月が来ると蓮池公園に行きたくなります。すぐそばの公民館に車を8台くらい駐車できます。きれいに手入れされ美しく咲いた蓮の花は神様の花だと感じるくらいきれいです。
ただ周辺は普通の住宅地ですので写真を撮るときは工夫が要ります。周辺の住民の方々の迷惑にならないマナーを持って楽しんでください。
公民館があいている時間はトイレも使わせてもらえます。
2018年7月11日に行きました。まだ花は十分楽しめます。が、しかし今年は花が少なく残念です。おまけに池の上にかかる通路が、途中穴が空いているため、通行止めになってます。神々しく咲いた花たちがあの大雨にも負けずに美しい花を咲かせて見に来てくれる人を待っています。
トイレも仮設トイレが設置されています。
素敵...
Read more2021/7/15 パラッと雨降りです。テレビのニュースで見る、土佐市...
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