猿田彦大神を祀る最古の神社です。
伊勢国一宮として名高い椿大神社(鈴鹿市)よりも昔から猿田彦大神を祀ります。
第10代崇神天皇の7年、物部氏の祖である伊香色雄(いかがしこお)が勅命を受けて猿田彦命を鎮座しました。
その子である大水口宿禰の子孫が明治時代に入るまで80代にわたって神主を務めたといいます。
また、天照大神の神霊を祀るにふさわしい地を求める道中、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめ)は忍山に半年遷幸したといいます。
先代の豊鋤入姫命(とよすきいりひめ)から90年にわたる旅は伊勢に落ち着きましたが、道中に立ち寄った地を元伊勢とし、天照大神が奉られました。
なお、当初は現在の忍山神社の北東に位置する愛宕山だったとされています。
また、この地は弟橘姫命(おとたちばなひめ)の生誕の地として知られています。
第12代景行天皇の御代、忍山の地を治めていた忍山宿祢(おしやまのすくね)の娘・弟橘媛は皇子・日本武尊の妃となり、東征に随行しました。
しかし、一行は走水(横須賀市)から上総国(千葉県中央部)へ船出したところ暴風雨に遭ってしまいました。
弟橘媛は暴風雨を起こす神の怒りを鎮めるために人柱として海の中へ飛び込み亡くなりました。
すると、暴風雨は止み、日本武尊は上総国へ渡ることができました。以来、この場所を走水と言います。
日本武尊は蝦夷を平伏して都へ帰る途中、小碓峠から南東の弟橘媛が眠る走水を眺めながら「吾嬬(あづま)よ」と嘆きました。
これは東国のことを「あずま(東)」と呼ぶようになったいわれです。
日本武尊がこの近辺の能褒野の地で倒れたということは何か意味があるのかもしれません。
平安時代には平重盛によって社殿が造営されたといいます。
なお、伊香色雄命は、『記紀』等に伝わる古墳時代の豪族・物部氏の祖です。
崇神天皇の時代に疫病が流行し、多くの人民が亡くなりました。
その際に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になる」と神託を述べたといいます。
天皇はその人物を捜し出し、神主として大三輪大神を御諸山(大神神社)に祀りました。
さらに伊迦賀色許男命に天の八十(やそ)びらかという平たい器を作らせて、天神地祇を奉った結果、疫病の流行はやみ、国は平安になったといいます。
そして天皇は皇女、豊鍬入姫命に天照大神を渟名城入姫命に倭...
Read more忍山神社(おしやまじんじ)。三重県亀山市野村。 式内社(小)、旧社格は村社。 王子ヤマトタケルの妻、弟橘姫命の生誕の地。
資料によると、 伝承によれば、紀元前91年(崇神天皇7年)に物部氏の祖である伊香色雄が勅命を受けて猿田彦命を鎮座し、伊香我色の子である大水口宿禰の子孫が明治時代に入るまで80代にわたって神主を務めた。また、垂仁天皇の皇女・倭姫命が忍山に遷幸した際に半年滞在した跡をかしこみ天照大神を奉った。
また、当地は、弟橘姫命の生誕の地として知られる。弟橘姫命は神主・忍山宿祢の長女で、景行天皇の王子ヤマトタケルの妻。ヤマトタケルが東征にあたって当地に立ち寄った際にその妻となり、東征に同道して、相模の海が海神の怒りに触れて嵐となった際に入水して鎮めたという。
かつては、愛宕山(亀山市野村町)に所在したというが、奈良時代に至って神宮寺を併置するに至った。
式内社(小)布気皇館太神社を論社とする説もある。 式内社調査報告も「式内布気神社は現忍山神社である公算が強いように思う」としている。 とあります。
主祭神:猿田彦命(さるたひこのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)。 合祀祭神:天児屋命(あめ...
Read more忍山(おしやま)神社
「式内社」と表記しているように、醍醐天皇延喜5年(905年)勅命により編纂され、延長5年(927年)に完成した「延喜式神名帳」伊勢國鈴鹿郡十九座に記載されている神社の1つです。
昔の人達が通る街道「東海道」から少し離れてますが鈴鹿川に近く水が良いのでこの地を選ばれたと思います。神社には綺麗な水は欠かせません。
何故、東海道の話をしたかと言うと倭姫命の御巡幸する際、必ず通る道であったと考えたからです。 元伊勢と呼ばれる各地の神社は数日しか泊まっただけの神社も有れば、数年滞在した神社もあります。 倭姫命は桑名野代宮からこの地に半年間滞在したこととなっており、鈴鹿小山宮(忍山宮)の比定地となっています。
また、倭姫命の甥っ子である日本武尊(倭建命)はこの神社の出身である弟橘媛を奥さんにしています。 以上より倭姫命だけでなく日本武尊もゆかりがあ...
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