頂上から東京湾側を見ると浦賀灯明堂と灯明堂海岸等見えて眺望が良い。
城主は三浦家一族の横須賀家。 平安時代以来の名門武家三浦家の最後大名の三浦道寸公の母は横須賀家出身で子の三浦義意公は油壺の新井城で日本史上最長の4年の籠城期間を戦い抜いた猛将として有名。
戦国時代~江戸時代に浦賀港は浦賀城址側が米問屋と廻船商家が立ち並び先に開かれた。 対岸の紺屋地区が北条家臣で北条氏康公の奏者も勤めた間宮宗甫公が配置されていた事から対岸の丘も城塞化されていたはず。 江戸時代に三浦安針公が浦賀にて外国船貿易関連で勤務していた。
西浦賀には平安末期に和田義盛公の居城だった横須賀市吉井の怒田城址を貫き鎌倉に至る鎌倉古道が通るので戦国時代にも重視されたのだろう。 間宮宗甫公は本領が横浜市神奈川区の斎藤分町で、間宮一族は水軍を率いて北条家臣として東京湾防衛を担った。 同時代の一族武将には山中城の戦いで豊臣軍に大損害を与えた間宮康俊公、康俊公の嫡孫で徳川幕府初代本牧代官、但馬代官、二代目佐渡金山奉行を勤めた間宮直元公、徳川幕府初代鷹匠頭の間宮信繁公等が有名。 紺屋地区側(西浦賀)に江戸時代に成ると浦賀奉行所が開かれ、昭和期に奉行所跡は住友造船の団地が建設されたが、水堀と石積はドブ川として現存する。
浦賀城の城域としては東林寺を含む規模だったはずで観音崎通りが北端の大空堀だろう。 東叶神社参道から登れる。 登城口に成る現代の参道は今は“えにし坂”とも呼ばれるが、古来“産霊坂”と呼ばれたので産土神(うぶすなかみ=土着の開拓神)を祀る場所だった事が推察出来る。
城が先か、叶神社が先か歴史は解らない。
養和元年(1181)年に真言宗の文覚上人と源頼朝公が石清水八幡宮から八幡台菩薩を勧進し再整備した聖地なので、浦賀渡し船の歴史解説からも判るが本来はド田舎地方である三浦の浦賀は古来大和朝廷の天皇家にも重視されたらしい。 叶神社は港湾を備えた峻険な山の湧水の聖地の要害堅固な山地形を三浦氏が奥院辺りを城塞化し、鎌倉幕府成立直前に文覚上人が港と湧水の聖地として水神治水海上交通安全の神格を持つ源氏の守り神である八幡大菩薩を勧進したのだろう。
城跡としての遺構としては、東叶神社側の山辺りが標高高く峻険。 良く観察すると叶神社奥院(元は真言宗系修験寺院)の在る場所は曲輪の土塁跡の様に頂上削平地を半分取り巻いている。参道開削の際に西側土塁は撤去されたのだろう。 他、奥院の裏側に曲輪が続き武者には真横の断崖に続く道を断ち切る堀切の名残りの埋没した微妙な凹みが見られた。 断崖にもいくつも帯曲輪が見える。 奥院裏手浦賀港側の断崖の降り口には往時の虎口跡とおぼしき土塁跡の切れ間から下まで続く綴折れ(つづらおれ)の武者走りが有った。
何にも遺構が無いと言ってる...
Read moreこの城は「川か?」と勘違いしそうになるほど細長い浦賀湾の、喉首にあたる場所に戦国時代、後北条氏が海賊城として築いたものです。 主な目的は房総の覇者、里見氏が率いる強力な水軍の通商破壊作戦(海賊行為とも言う)からシーレーンを防衛するためのものでした。
奥行きが約1km、幅が240〜160mしかない湾の奥に船を待避させれば波風から守られ、一方入口の浦賀城は狭い湾口の制海権を完全に掌握できるので、中は絶対安全!という訳ですね。
城は東叶神社の裏山にあり、約250段の急な階段を登り切ると素晴らしい海と空の景観が開けて、ここに城を築いた理由も理解できます。
特に房総半島方面への視界は抜群で、漕ぎ寄せる敵の里見水軍も遠方から視認できて、素早く対処できた事でしょう。 また浦賀湾も一望の元で、湾の入口にあり江戸時代初期から220年間絶えることなく火を灯し続けたという浦賀灯明堂や湾奥の浦賀ドックも良く見えます。
城自体は江戸に統一政権ができ海賊の脅威が無くなったので廃止されますが、浦賀港は江戸の外港として奉行所が置かれ重要性は失われなかったので、城跡の一部は天候などを観測する見張り台として維持されたようです。
幕末には、この城の眼下で大変な事態が発生しました。文字通り、政権を揺るがし時代を変えた大事件です。狭い湾口を塞ぐように、黒く塗られた4隻の巨船が無警告で侵入してきて、浦賀奉行所の鼻先で停泊したのです。ハイ、言わずと知れたペリー来航です。
江戸に入る船は全て抜け荷(密輸)を防ぐため、一度は浦賀に入港して積荷の臨検を受ける事になっていました。 したがって、いくら浦賀奉行所が緘口令を出したところで無駄で、翌日には江戸市民にセンセーショナルな形で知れ渡っていたのです。
ペリーもこれを狙って停泊した訳で、なかなかエグい事をしますな(笑)。開拓時代の保安官が、ドアを蹴破って酒場に乱入し、拳銃を突きつけ容疑者に服従を迫る姿に似ています。
ちなみにここから見える、浦賀灯明堂背後の高台には千代ヶ崎砲台が後に設置されています。この砲台には東京湾要塞中で最大最強を誇る305ミリ連装砲塔が据えられていました。
戦艦から取り外して、わざわざ山上に運んだもので「今度、ここで同じような事をしやがったら、タダじゃおかねえ!」という強い意志が感じられます(笑)。 当時の日本人にとって、この出来事は相当なトラウマに...
Read moreYou get here by going up the stairs behind the nearby Hano shrine. There are a few monuments in the flat area, but I cannot imagine what the castle may have looked like, sadly. The views are nice. Would have preferred more information to read, but it...
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