【当社】(ハナシヤマジンジャ)は、徳川家康も松平から徳川に変えて就任した「征夷大将軍」として歴史教科書に登場する坂上田村麻呂が創建に絡む茨城県笠間市上郷にある神社。常陸国茨城郡の式内小社で、旧社格は郷社である。 【地勢】当地区は、南北西の三方が山で囲まれ東方のみが開いており、風水的には良い場所である。北風西風を山が防いでくれて、平地を小河川が東流して涸沼川(ヒヌマガワ)に合流する。さらに下流に行けば涸沼を通って那珂川(ナカガワ)に至り、そして太平洋に注ぐことになる。 【由緒】古くは羽梨山の中腹に鎮座していた。 天智天皇3(664)年に桜の多い羽梨山の中腹に「木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」を祀る祠を建立したことを契機に「花白山神社」と呼ばれるようになった。 延暦22(803)年には征夷大将軍の「坂上田村麻呂(サカノウエノタムラマロ)」が陸奥征討の戦勝祈願し、社殿を寄進した。 平将門(タイラノマサカド)の乱では、「平貞盛(タイラノサダモリ)」が弓矢、砂金を奉納し、平将門征伐の戦勝祈願をした。 平安時代には源頼義(ヨリヨシ)・義家(ヨシイエ)の父子が矛、太刀、鎧、神馬を奉納した。神馬の鐙のみ現存するようだ。...
Read more羽梨山神社(はなしやまじんじゃ)。茨城県笠間市上郷。
式内社(小)、旧郷社。
主祭神:木花咲耶姫命
資料によると、 創祀年代は不詳。
三代実録に、羽梨神とあり、貞観十二年(870)八月二十八日、従五位下から従五位上に、さらに、仁和元年九月七日、正五位下を授けられたとある古社。
往古は、羽梨山(現在の難台山553m)中腹にあったが、現在は、羽梨山東麓に地に遷っている。
社伝によると、日本武尊東征の途次、老翁・媼が山菓を献じ兵卒の飢渇を癒した。 名を問うと、磐筒男・磐筒女であるといい、日本武尊凱旋の際、朝日丘の榊に羽々矢・果実を供して報賽した。 故に、朝日丘を羽梨山と称するようになったという。
また、この山に桜が多く、春になると、雪山のように真っ白になるところから花白山と呼ばれ、天智天皇三年(664)、人々は花の美しさに感嘆して山中に祠を建てて、木花咲耶姫命を祀り、花白山神社と称したといわれ、後に花志山、羽梨山へと変化したとも。
また、筑波山に葉が茂っているのに対し、当山には木が無かったため、羽梨山となったとも。
中世、宍戸家政が当社を崇敬し、宍戸三十三郷の鎮守としたが、天文十一年(1542)兵火に罹り焼失して、衰退したという。
また、昔一人の老翁がこの地に来て神社を建てることを勧めた。 この老翁が熊野権現の化身であり、羽梨山東麓に熊野権現を祀った。 この熊野権現が現在に羽梨山神社であるという。 羽梨山神社は、もとは東の山中、現在地から八丁(900m弱)の位置に在ったが兵火に焼失し、熊野権現の地に遷座されたと言わ...
Read more御祭神は木花咲耶姫命。一説には,日本武尊が東征の途中に当地(現在の難台山)で陣を張った際,老翁・老媼が現れて山果を捧げ兵卒の飢渇を救った。名を尋ねると「磐筒男」と「磐筒女」の二神であった。日本武尊は凱旋の折りに神に羽々矢と梨の実を捧げたことから,この山は「羽梨山」と呼ばれるようになった。別説には,当山は桜の木が多く、花が咲くと山全体が白くなるところから花白山と呼ばれ,天智天皇3(664)年に木花咲耶姫命の分霊を勧請して花白山神社と称し,それが転訛して羽梨山神社と呼ばれるようになったとも云う。或いは,筑波山に葉が茂るのに対して,当山は木が無かったことから羽梨山となったとの説もあります。その後も坂上田村麻呂や平貞盛,源頼義・義家など名だたる武将の寄進を受けたが,天文11(1542)年に兵火にて社殿が消失し,そこから八町ほど下った現在地である山麓の熊野権現に合祀されたそうです。さて,元の社地はどこかというと,難台山中腹の石岡ゴルフ倶楽部ウエストコース内だそうです。ウーム,これは是非行ってみたいですが,ゴルフをやるほどの生活の余裕はないもんですから...。当社は延喜式内社(小社)「常陸国...
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