神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は近隣の神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)と元々は同じ場所に鎮座し、両社は合わせて両機殿(機殿神社)と呼ばれます。
伊勢神宮では毎年二度(5月、10月)、天照大神に新しい御衣を奉ることで、神恩に感謝し、国家の平安と五穀豊穣を祈願する神御衣祭(かんみそさい)が催されます。
天照大神に奉る神御衣(かんみそ)を調進するための重要な神事で、絹布の「和妙(にぎたえ)」と麻布の「荒妙(あらたえ)」の二種類の布が織られ、天照大神に奉献されます。
和妙は神服織機殿神社で女性によって織られ、荒妙は神麻続機殿神社で男性によって織られます。
両機殿は神御衣を織る「機殿(はたどの)」が設けられた御料地であり、神宮に和妙・荒妙を調進するために極めて重要な神社です。
神御衣奉織始祭(かんみそほうしょくはじめさい)は奉織を始める前に清く美わしく奉織できるように祈る祭で両月の1日に行われます。
両機殿の境内の八尋殿(やひろどの)という機織り作業場で織子によって数日間かけて御衣が織られます。
13日に行われる神御衣奉織鎮謝祭(かんみそほうしょくちんしゃさい)で完成した御衣を内宮へ運びます。
この辺りの櫛田川流域はかつては紡績業が盛だったため、機殿が構えられたといいます。
『古語拾遺(807年)』には麻績の地名が記され、江戸時代には上流部で生産された木綿糸が伊勢商人の主力商品とされ、松坂木綿の生産地として有名でした。
垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を一時的に祀ったときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社といわれます。
内宮が現在地に定まったとき、内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。
倭姫命は翌年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせました。
そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けました。
神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせました。
天智天皇7年(668)8月3日に火災で失われたため、両機殿を別々に建てたといいます。
平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれ、和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ)が奉織しました。
白河天皇の承暦3年(1079)、神麻続機殿は現在地に移されました。
北畠家が勢力を拡大し、この地を治めたときに服部部・麻績部ともに姿を消してしまい、両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となり、祭事が復活したのは大正3年(191...
Read more神服織機殿(かんはとりはたどの)神社 皇大神宮(内宮)所管社30社のうち第9位。伊勢神宮125社の一つ。
御祭神は神服織機殿鎮守御前神(かんはとりはたどののまもりのみまえのかみ)
神様の和妙(にぎたえ)をこの神社で織り上げます。その布は内宮正宮と荒祭宮では毎年5月と10月に行なわれる神御衣祭(かんみそさい)で使われます。神御衣祭は豊受大神宮(外宮)では行われません。
何故内宮から遠く離れたこの地に所管社があるのか不思議でしたが、斎宮との関係が重要であると分かってきました。 皇女である斎王は内宮に納める布を自ら機織りしていたとの説があります。 明和町にはこの神社以外にも機織りに関する神社が多数存在しています。
イオン明和店や国道23号線から麦畑越しにこの神社の森が見えます。
南に位置する神麻続機殿神社を「上機殿」と言い、この神服織機殿神社を「下機殿」と言われてます。 何故「上」と「下」の表現をするか不思議でしたが斎宮の立地と隣接する祓川を使った移動を考えると海に近いこの神服織機殿神社が「下流の下」、神麻続機殿神社を「上流の上」と川を利用した目線なら理解出来ます。
麻布(荒妙)を織る上機殿に対して下機殿は絹布(和妙)の奉織を行います。
私も勘違いしましたが鳥居正面に位置する萱葺屋根の八尋殿はいわば作業小屋で神様が御鎮座する社殿ではありません。
伊勢神宮摂社末社序列社の中でも非常に珍しく神明造りの建物ではありません。両妻に棟持ち柱が立ってません。 その代わりに妻側に扉が有ります。 扉があるから棟持ち柱を設けられないのでしょうが。
また、屋根に鰹木が8本もあるが珍しいです。皇大神宮(内宮)の本宮が10本。荒祭宮や月読宮、倭姫宮も6本なのに8本とは意外です。
所管社ですが敷地内に社務所があります。機織りの作業を実際に行うのでこの社務所に電気や水道も通っており社務所裏にはトイレも有りました。
勝手な事を言わせて貰うと、入口や境内の電柱や電線が無け...
Read more「神様の御用人...
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