添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)。奈良市三碓(みつがらす)。
式内社(大)、旧村社。 大和国に6つある御縣神社の1つである。 【関係氏族】添県主 小野氏
主祭神:建速須佐ノ男命、武乳速之命、櫛稲田姫之命。 武乳速之命は天児屋命の別名とされ、『新撰姓氏録』では津速魂命(中臣氏の祖)の子で添県主の祖とされる。一説によると祭神のうち武乳速之命の実名は、富雄川中域を治めていた首長である長髄彦であるという。とあります。
資料によると、 創始年代は明らかではないが、恐らく添御縣の国魂神を添縣主(姓氏録・旧事本紀に津速魂命男武乳遺命の裔)が祀っていたものであるとされる。また、当社鎮座地付近は古代豪族である小野氏が治める村里であったとされ、小野氏の氏神として祭祀されたものともされる。史料での初見は、天平2年(730年)の『大和国正税帳』で「添御県 神戸 稲152束8把、租20束、合172束8把」と記載されている。『延喜式神名帳』では大社に列しており、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。江戸期は牛頭天王社と称されていた。
古老の口伝には、武乳速之命は大和の先住民の首長・長髄彦で、神武東征による大和平定の際に、捲土重来を期して蜂起を図る先住民を説き伏せた上自害し、これを惜しんだ遺民が当地にその霊を祀ったのが鎮座の起源という。しかし明治時代以降、神武天皇敬仰の風潮の中で本名を表出することを憚り改称したという。 とあります。
参考として、 大和国六御県神社(むつのみあがたじんじゃ)とは、朝廷直轄領である六つの御県「高市」(たけち)、「葛木」(かつらぎ)、「十市」(とおち)、「志貴」(しき、磯城)、「山辺」(やまのべ)、「曾布」(そふ、添)の各地に置かれていた神社のことをいいます。 御県とは皇室に納める料地のことで、『延喜式神名帳』には他の御縣神社として、久米御縣神社が記載されているとのことです(「御県神社」という神社は大和国内に7社あり、いずれも皇室の御料地である御県(みあがた)に鎮座していたものである。『日本書紀』垂仁天皇27年に「是歳、来目邑に屯倉を興す」という記述があり、創建もその頃とみられる。 延喜式神名帳では「大和国高市郡...
Read more小さいながらも、強い歴史の力、この地富雄の力強さを感じる貴重な神社。宮司が聞いた長老の口伝によると、ここは、あの「長髄(ナガスネ)彦」を御祭神として祀った神社である。
神社名は添(そう)郡にある御県(みあがた)、つまり朝廷の直轄地に鎮座するという意味を持つ。添郡とは、奈良市や生駒郡、添上郡を含む奈良県北部のことで、主に皇室に木材を収める御料地だった。
創建は不明だが、奈良時代、この地域を治めていた小野福麿が創建したとされる。平安中期の法律などをまとめた「延喜式(えんぎしき)」の中の神名帳にのっている神社の一つなので、それ以前に創建されている。長髄彦のことを考えると古墳時代からこの地は神聖な地だったかもしれない。本殿は室町前期に建立され、現在は国の重要文化財。
御祭神に建速須佐ノ男(スサノオ)命、武乳速(タケチハヤ)命、櫛稲田(クシナダ)姫命とある。櫛稲田姫命は須佐ノ男命がヤマタノオロチから救うことを条件に妻に迎えられた女神。
長髄彦は神武天皇が大和国に東征した際、鳥見 (とみ)の現地王だった。詳しくは宮司のインタビューが、YouTubeにあるのでぜひ見てほしい。長老によると江戸期までは武乳速命ではなく長髄彦の名で祀っていた。明治初期の神道国教化にあたり天皇の逆賊を祀るのはよろしくないと、日本書紀ではマイナーな神に変えた経緯があるという。
春分秋分の日はここから生駒山を見ると、山のくびれたところに太陽が出る。稲を刈り取る時期として暦を知る存在が古い神社で日本中で確認されているがここもその一つである。また、この地域は蔵が立っている家が多く、災害が少ないとのこと。
摂社の福神宮には小野福麿が祀られている。小野妹子の子孫にあたる。さらにその隣の小さな社、九乃明神には、福麿と関わる地...
Read more添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ) 631-0802...
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