結城市内は古寺が多い。朱色の山門が見事☺️ 2021年11月8日(月)に結城市の街歩きで訪れた。 結城市の公式ホームページより ●孝顕寺 結城家15代政朝が独峰雲聚を開基として永正寺を創立。以後,現在の地に移転され,結城家18代秀康により新たに孝顕寺と改称された。秀康は国替え先の越前福井においても孝顕寺を建立している。
以下は「ibatabi.com」より ●孝顕寺(結城市)概要: 天女山永正禅林泰陽院孝顕寺は県結城市大字結城に境内を構えている曹洞宗の寺院です。孝顕寺の創建は室町時代後期の永正12年(1515)結城氏15代結城政朝が独峰曇聚禅師を招いて開いたのが始まりとされます。
当初は永正寺と称し玉岡の地にありましたが、政朝が天文16年(1547)に死去すると16代結城政勝が政朝の法名「永正寺殿宗明孝顕寺大居士」から孝顕寺と改称しています。17代結城晴朝は引き続き庇護し寺領として弁天島(立町)の土地を寄進し慶長4年(1599)15代結城秀康(徳川家康の二男)により現在地に移され七堂伽藍を造営しています。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで秀康は徳川家一族として会津の上杉景勝の侵攻を牽制した功により福井藩(福井県福井市・本城:福井城)に移封になると、2派に分かれ越前派は秀康の菩提寺となり、結城派は元禄13年(1700)に水野勝長が入封し結城藩を立藩すると藩主となった水野家の歴代の菩提寺(位牌所)として篤く庇護されています。
又、孝顕寺は修行道場としても寺運が隆盛し常時十数名の修行僧が修行に励んでいました。江戸時代末期の結城藩の国家老である小場兵馬は戊辰戦争の際に新政府方に恭順を示したものの、佐幕派が結城城を乗っ取り大きな混乱を招いた事から、その責任を感じて考顕寺の境内で切腹しています。
現在の孝顕寺山門(三門)は江戸時代中期に建てられたもので三間三戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、入母屋、瓦葺、楼門形式、外壁は真壁造り板張り、全体を朱色に塗り2層目には高欄を廻し、孝顕寺と関係が深かった結城家、松平家、水野家の家紋が掲げられています。山門は当時の楼門建築の遺構として貴重なことから昭和52年(1977)に結城市指定文化財に指定されています。
孝顕寺本堂は木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺き、平入、桁行6間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。又、孝顕寺境内は結城城の一部だった事から城の総堀(御朱印堀)の一部が残され貴重な事から茨城県指定史跡に指定されています。山号:天女山。林号:永正禅林。院号:泰陽院。寺号:孝顕寺。宗派:...
Read more茨城県結城市にある『孝顕寺』です。
孝顕寺山門は江戸時代中期に建てられたもので全体を朱色に塗り2層目には高欄を廻し、孝顕寺と関係が深かった結城家、松平家、水野家の3つの家紋が掲げられています。
孝顕寺境内の西側には、結城家第18代秀康が城の西側に新たに新城下町を建設した際に周囲にめぐらせた『御朱印堀』の一部が残されています。
永正12年(1515)、結城家第15代政朝が栃木市の大中寺から獨放曇聚禅師を迎え開山、結城城西側の地に玉岡山永正寺と称し創建されました。
第17代晴朝が弁天島の地を寄進し、慶長4年(1599)、第18代秀康に依って現在の地に移され孝顕寺と改称した。
慶長6年8月、越前移封の際、秀康は時の住職を同行し福井にも孝顕寺を建立しました。
その後の結城藩主・水野...
Read more先日このお寺さんに伺った時の事、口コミ等で親切なお寺だとうい評価が多かったのだが・・・実際行ってみるととんでもなく悪い対応で驚いた。御朱印も頂けるというお話を聞いてはいましたが、丁寧に聞いたつもりでしたがその対応はとても面倒そうに、誰が聞いても気分の悪くなるような受け答えでとてもイヤな気分になるというか、これでもお寺さんなのか・・・という横柄さに非常にがっかりした。このお寺へ行くときはその辺の事を念頭に置いて伺ったほうがいいと思う。 因みにその数日後に電話をしてもみたがやはりあり得ないくらいの対応で・・・個人的には今後二度と行きたくないというよりも、近づ...
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