延喜式神名帳の和泉國大鳥郡の項に記載のある式内社。 また同郡の項に記載のある大歳神社を明治42年に合祀している。
JR阪和線の富木(とのき)駅の東改札から徒歩15分ぐらい。
この等乃伎という社名の「伎」は「木」のこと。 古事記の仁徳天皇の条に「此之御世、免寸(とのき)河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山」という記載がある。 これによると、とのき川の西に一本の高い木があって、その木の影は朝日が当たると淡路島に及び、夕日に当たると高安山を越えたという。 この記載は実際、冬至と夏至の日の太陽の動きと一致している。 当社から見た夏至の太陽は高安山から昇り、当社に巨木があれば、その影は淡路島の由良湊神社(式内社)の方向を向く。一方、冬至の太陽は由良湊神社に落ち、当社に巨木があれば、その影は高安山の方向を向く。
等乃伎神社は古事記の記載から巨木信仰から生まれた神社とされるが、その本質は日知り(暦を知らせる)神だろう。 以前、大和の鏡作坐天照御魂神社と石見鏡作神社も太陽の運行にしたがって配置されている。この両社の配置は立春・立秋の太陽の運行にしたがって配置されたと考えられるが、そもそも立春や立秋は推古天皇の御代に中国から導入された中国暦に基づくもので、それより前は夏至と冬至が重要視されていた。 立春や立秋の中国暦が導入されたため、夏至と冬至の太陽の運行にしたがって配置されていた石見の鏡作神社が八尾に遷座した可能性も指摘されているが、等乃伎神社の配置は夏至と冬至の太陽運行に従うもので、推古天皇以前の、古代日本の暦に従ったものといえる。
当社の現在の御祭神は天児屋根命となっているが、本来は巨木による日知りの聖地。また、宮を建てたのは752年ともいわれているが、上記の理由から推古天皇(593-628)...
Read more困ったときの等乃伎神社と言われる、大阪南部では(全国でも)トップクラスの授与品の品ぞろえを誇るスーパー神社。ブツブツに切れた熊野街道沿いに、島のように残る境内なんですが、R30沿いではあるものの、クルマで近寄るのは少々難があります。電車なら、阪和線の富木(とのぎ)駅。特急「はるか」や「くろしお」が猛スピードで通過する高石市の駅ですが、この神社に参詣するのに途中下車してでも行く価値ありのところです。駅から向かって行くと、神社の西側から南へ回り込む形になりますが、境内入って、ほぼ斜め正面に本殿、左の長屋が授与所に続く陳列コーナーになっています。だれでもどれか一つは当てはまる願意のお守りが、整理されているようでランダムに、お札も含めて、ばばーっと並べられています。なんでもないヒマな平日は雨戸で締めきっていますが、参拝時間中は左右自由に滑らせて移動する雨戸をずらしながら、好きなお守りを選べます。社務所に並ぶ授与所右側で、いちおう露天会計してくれますが、おおざっぱな整理なので、何を何体買って、いくらなのか、会計中はその場を離れてはいけません。キャラクターものは古いバージョンも当然のこと、なんでも置いてあります。お守りの神社名は、ピンキリで、金糸で入れてあるものから、金箔押し、朱色のゴム印押しまであるので、神経質な方には向かないかもしれません。けれども、種類はダントツで、いつもチョロチョロ陳列位置や内容が変わりますから(みんながいじるので、まえに確かにあったものがどこかへ移動する)気になる方は、マメに通うことをお勧めします。御手水舎のほかに、触れて清める岩もありますから、ハンカチ持ってない人は、境内入ってすぐの場所にある"祓い岩"にさわるだけで済みます。若い人の神社離れなんてのはどこ吹く風...
Read more起源は古く平安時代中期の延喜式神名帳にもその名は記されています。中臣氏の一族である殿来連が祖神の天児屋根命を祀ったのが始まりで、その年に太政大臣の藤原武智磨呂やその子の大納言藤原仲磨呂がこの里に移住したことから藤原氏(中臣氏)との由縁が強かったとされています。 また、古事記下巻に記されている巨木伝説の地と考えられ、古代の太陽信仰にも繋がりがあると伝わる。現在でも当神社の楠が御神木として崇められています。 現在では特に御守り販売に力をいれており、"よそでは手に入りにくい御守"としてキャラクターを使った御守やステッカー型の御守などを幾種類も販売。また拝殿にはガシャポンおみくじ"カプセルみくじ"が置かれるなど奇抜な神社となっています。
巨木伝説:...
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