香川叢書より。 1834年3月に高松藩に差し出した「陶村八幡宮畑田村八幡宮陶村社家記録」1857年に加筆された由緒によりますと「土州長曾我部兵乱之時、兵火掛かり焼失」とはありますが、もしも真実にこちらに長曾我部軍が来たとするならばこちらに来たのは長曾我部の軍でも西衆という西讃の兵を中心とした軍となります。 同郷の者が焼いたと書けなくて敢えて土州(土佐)と書いたものなのか、それまでにこのあたりも阿波の三好と反三好で戦いが頻繁であり、応仁の乱以降で野盗も多かったと言いますのでこれもスケープゴートで元親を悪に仕立てたものか、江戸も半ばになってから藩に提出したという事実からして寺の正当性の主張に元親という悪が必要だったのか、いろいろと考えさせられます。
この近くの江戸時代の学者の中山城山は全讃史で「里人は一言目には長曾我部が焼いたと言う、信ならず。元親はひろく人を愛すことによって四国を統一した。しかし治政の間もなく秀吉に負けて土佐に戻ったためにすべての罪を擦り付けられた...
Read more主祭神 応神天皇、仲哀天皇、仁徳天皇、神功皇后、応神皇后 合祀祭神 大物主大神、金比羅神社 人皇五十八代光孝天皇の時、仁和年間(885〜889年)甲知郷八幡勧請。今の畑田八幡境内の林の中に夜な夜な光気が立ち、里人は不思議に思っていました。農夫が田を耕していると童子が来て共に耕している。 農夫が童に聞くと「我は甲知郷に留まる大鞆和気と云う。この地に鎮座して里人を守護しよう」と云う。 里人達は相談し、宮社を建て畑田村の産土神として尊崇するように成ったと云われています。 天正年間(1573〜1592年)に土佐の長曽我部元親軍の兵火にかかり焼失します。里人はこれを憂い元和年中(1618〜1624年)に再興。万治二年(1659年)神祠一宇を修造しました。その後七回程の改修を経て明治十二年(1879年)に本殿、幣殿、上拝殿を再建。大正四年(1915年)に拝殿を再建し社務所を新築しました。 ちなみに「全讃史」には童子の事を男山大自在菩薩(八幡...
Read more初詣での方々に、お神酒と甘酒を無料で飲ませて頂けます。ここは、親子獅子が有名です❗10月の第三か第四日曜日には、12個の公民館から集まって12個の親子獅子が踊ります。お...
Read more