埋没古墳。かつてここに巨大古墳があった。 (一辺70mの方墳、築造時期7世紀中頃(640年代)と推定) 被葬者としては、蘇我蝦夷の墓とする説、舒明天皇の初葬地とする説があり、考古学者を二分する大論争になっている。 蘇我蝦夷の墓とする説の場合、 日本書紀に「(蝦夷が)生前に双墓を造る。一つを大陵で蝦夷の墓、一つを小陵で入鹿の墓とした」と記されており、小山田古墳を大陵=蝦夷の墓、菖蒲池古墳を小陵=入鹿の墓と考える見方がある。 この説に関連して、毎日新聞(2017.3.1)に以下の記事が掲載されている。 『乙巳の変後、巨大すぎる蝦夷の大陵は壊され、政変で死亡した蝦夷、入鹿の2人は小陵に埋葬されたと考えられる(明日香村教委・相原嘉之文化財課長)。 乙巳の変後は蘇我氏にとって厳しい時期で、蝦夷の墓として、あの巨大方墳は『許されない大きさ』。菖蒲池古墳石室内の奥の石棺が蝦夷、手前が入鹿ではないか(猪熊名誉教授)』 また、産経新聞(2017.3.1...
Read more2019/01/31 産経ニュースより 舒明(じょめい)天皇の初葬墓とされる奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳(7世紀中頃)で、墳丘西端部が初めて確認され、橿原考古学研究所が31日、発表した。 これまでの調査で約70メートルと想定されていた墳丘の東西幅は、80メートルを超えることが判明。全国最大級で、飛鳥時代最大の方墳であることが確実となった。 今回の調査では、墳丘西端部のテラスと、地表下3メートル付近から約50度の傾斜がついた斜面を初めて確認。室生安山岩などの石材も大量に出土し、西側斜面も北側と同じく石材で覆われていたことが分かった。 古墳は約72メートルの北辺に比べ、南辺がやや長い台形とみられる。墳丘中心線から調査地までの距離は39・7メートルで、左右対称と考えると全長79・4メートル。これに墳丘を覆う石材の幅1・4メートルを含めると、80メートルを超えるという。 規模は同県橿原市の桝山古墳(一辺約90メートル)に迫り、飛鳥時代で最大とされていた千葉県栄町の龍角寺(りゅうかくじ)岩屋古墳(同約78メートル)を上回ることが確実となった。 橿考研は当初、小山田古墳を舒明天皇の初葬墓としていたが、岡林孝作調査部長はこの日の記者会見で、「所内でもさまざまな議論がある」と言及。蘇我蝦夷(えみし)も被葬者の可能性があるとの見解を初めて示した。 一方、舒明天皇の初葬墓とみる菅谷文則所長は「石舞台古墳よりも大きく、舒明天皇の初葬墓に...
Read more擁護学校の外周を周りましたが建物で遺跡のあったであろう場所は見えません。仮に見えたとしても現在は埋め戻されて駐車場でしょうけどね。ここに遺跡があったことを示す看板や説明もないです。歴史的に重要な大きな方墳があったはずですが、現在は学校の土台に…。乙巳の変(大化の改新)で物部氏に殺された蘇我氏(息子)の父親の古墳だという説が有力です。すぐ近くにある菖蒲池古墳(小さい)は殺された息子の古墳です。物部氏は蘇我氏を滅ぼした後、大きな小山田古墳に埋葬されていた蘇我氏(父親)を蘇我氏(息子)の眠る小さな菖蒲池古墳に合葬...
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