若かりし頃、穂高を旅することになった主たる動機は、碌山美術館を見学することだったような気がしています。1980年前後でした。 こぢんまりとした美術館でした。仔細の記憶がはっきりしていないのですが、入り口から真っすぐ歩いて行くと、作品が置かれている明るい空間に至りました。部屋全体が太陽の光に満ちていたような場面を思い出しています。目的の「あこがれ」(※)を鑑賞するために訪問したはずでした。その空間のほぼ中央に「女」のブロンズ像が置かれてありました。何かを感じ取ろうと像を観て回りました。感じ取れたのは、あこがれを彷彿とさせる伸びやかさではなく、身をよじり、苦悶しているように見える姿でした。
重々しい気分をかかえて、美術館を後にしました。ここでも「女」像の写真を購入していました。約29×34㎝程の大きさで、右下に「ROZAN MUZEUM」と凹凸刻印されています。ネットで見られる「女」の像は、上半身が前に突き出ていて、やや不安定な印象を受けると思われますが、手元にある写真は、下方から撮られているのですが、重心にブレがなく、重厚で、気高さが感じられます。主観ですが、「あこがれ」とは少し違う印象を持ちました。観る角度によって異なる、もしくは相反する感想を抱かされる優れた表現能力、力量の確かさを感じざるを得ません。 元々は、石膏像ですが、1910年重要文化財に指定され、東京国立近代美術館に所蔵さています。
「デスペア」と「文覚」については、様々な評価があります。愛、絶望、相克。夫の浮気や幼子との死別による相馬黒光の苦悩。碌山の秘かなる想いを知りつつ、その想いを受け止めることなく、碌山に慰めを求めていたように思われます。その女性に対する満たされぬ碌山の愛。いくつもの評論を読むことができます。 高村高太郎は、相馬黒光を嫌っていたと言われています。碌山は、パリにいた高村高太郎宛には「我 心に病を得て甚だ重し」と書き送っています。
ニューヨーク滞在中に出会った戸張弧雁(とばりこがん、彫刻家・版画家)は、相馬夫妻と共に、碌山の死の床でアトリエの鍵を渡されます。戸張弧雁が碌山の机の中にあった日記を一枚一枚破り、燃やしながら黒光を罵ったそうですが、このことを黒光自身が冊子「碌山のことなど」に書き綴っているそうです。贖罪の想いだったのかもしれません。
碌山は「愛は芸術なり。相克は美なり。」という言葉を遺しています。作品を生み出す根源について悟った心境を言葉にしたのではなかろうかと推察してみました。
穂高に行かれなくとも、新宿の「中村屋サロン美術館」に行けば、「女」像を観ることができます。(碌山制作の石膏像をブロンズに鋳造した作品は穂高にありますが、そのブロンズ像から石膏像を造り、それを鋳造したブロンズ像が「中村屋サロン美術館」にあるとのことのようです。)...
Read moreWithout any plan to travel to this place, and drop by at Hotaka Station. From Hotaka Station open google maps and found this museum. Hit the right spot. It is small museum. But the autumn view very nice. From Hotaka Station about 7 minutes walk. For Infection prevention, you need to wear mask, disinfectant alcohol and write down your contact number. The entry 700 YEN. The art of sculpture by Moriye Ogihara (Rokuzan) or enjoy the view of building...
Read more碌山は初代の中村屋と言うパン屋を新宿で始めた人があり、芸術や文化にも観賞眼があり、また優れた芸術家には援助を惜しまなかったと言う初代中村氏。 其の人がパトロンになって作くった美術館と聞く。碌山との人となりまた交流には現代の私たちが忘れている様々な義やら仁に当時はうたれた心良き空気感が今も流れているような、それは今〜私たちが眼にする美術などとなって現れている。 彫塑や彫刻の作品が此の美術館は多いが、其れ以上に文化と言う紛れもなく純な世界を愛しまた人びととの交流も果たした役目は多大であった。インドの人チャンドラ・ブースだったかも其の一人だし、高村光太郎などはつとに有名であろう。 美術館はちょっとロダン風な作品が目に付くが、萩原碌山は、純粋なアーティストたちは最初はかように感じまた作品と形成したと私には感じられそれが一番、アートを観賞するには目を養うと言う基礎にはなる。 私が此の美術館にも良く立ち寄ったのは諏訪の北澤美術館への行程での休憩地点でもありまた白馬村のホテルでのワイン会に出席するためだったり様々で、30数年前から約10年程は良く通ったと言う程に行きましたね。 小さな教会めいた建物はいまだにツタや蔓草に覆われて厳然とまた静やかに建ち観賞するひとたちの慰めにもなっているのだろうか、街道をゆっくり走れば野地蔵やら左様な様々な古えの馬頭観音だったりが目についたり、もう其処は既に古き良き日本の懐かしき古里の様な原点さえも思う場所だったり。 今は街道も近代な世界と変わり過ぎているかも知れないね〜旅は何か忘れていたものを重い出させるチャンスだ。 私は、父の弟である人〜が彫刻家でありまた大学ではその教鞭をとり教えてもいた人であったから偶然にもせよ萩原守衛〜碌山は身近に感じた人であった、だからといってそう言う才能はなく単に芸術〜美には何か祖父以来の我が血潮をめぐる伝統的な遺伝子の高ぶりを感じるのです。私の叔父も碌山と似た...
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