小弓城主原氏と連歌師宗長
室町時代後期の永正6年10月(1509年)小弓城に、当時全国的に著名であった連歌師宗祇(応永28年(1421年)~文亀2年(1502年))の弟子、柴屋軒宗長(文安5年(1448年)~天文元年(1532年))が来訪し、連歌会を開催したという。 連歌とは、和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)を多人数で即興で詠み繋ぎ(百句が基本…百韻・長連歌)、その展開の変化を楽しむ、高度な教養を必要とする娯楽である。武家の嗜みの一つとしても流行していたのだという。 職業としての連歌師(連歌の創作や指導・連歌会の運営)はそれまで、京都での活動に終始した為、十分に生計を立てる程の収入は望めなかったが、この頃の世相を境にして(先の応仁の乱の後、室町幕府の求心力の低下によって、各国守護を務める諸大名が幕府体制の下での京都滞在をやめ、自らの国元に帰国するという、いわゆる"守護大名の在国化"が進んだ。)、各地の在国守護や守護代、有力国人等の許に赴いて連歌会を開くといった行動範囲の広がりを見せた。つまり今風に言うと『連歌ライブツアー』を開催して諸国を巡り、興業収入を得ていたということだろうか。 宗長は、当時の小弓城主原胤隆に招待され、この地にやって来たのだが、戦乱で不穏な時勢によるのか、目的の一つだった清澄寺参詣を取りやめ、さらに南方の上総安房へは赴かず、再び下総の西へと歩みを進めた。(東路の津登) それから8年後の永正14年(1517年)、足利義明(後称小弓公方)を奉じた上総武田氏の攻撃により、原胤隆、小西原胤継・友胤父子(恐らく小西より援軍)らは敗北し、小弓城を奪われた。連歌の宴と小弓城落城の事象の対比が、戦乱の世の哀れを感じさせる。
余談ではあるが、この際、小弓城を追われた原友胤は、何故か領地の小西に帰らずに甲斐国に奔り、甲斐守護武田家の家臣となった。友胤嫡男は虎胤(原美濃守虎胤)で、武田信虎、武田晴信(信玄)に仕え、その勇猛さから「鬼美濃」と称された。江戸時代には、武田二十四将の一人に数えられ、絵画や浮世絵、講...
Read more戦国時代、 小弓 (生実) 地域には南北に二つの小弓城が存在しました。 これまで、この南小弓城の方が、 北の小弓 (生実) 城 (中央区生実町) よりも古くから存在し、 小弓公方足利義明の御所もこ ちらにあったと考えられていました。 しかし、 発掘調査等により、 小弓城は15世紀後半頃から存在しており、 義明が拠点としたのも小弓城であったことなどが判明しました。 南小弓城は発掘調査が行われていないため成立時期は不明ですが、 本丸に当たる主郭 (「古城」のあたり)の周りにかつて存在していた堀や土塁の形態、 中鼻 (原) 地区にある出入口を守るための施設(馬出状曲輪) の配置などから考えると、16世紀半ば以降に築かれた可能性があります。 戦国時代後期、本佐倉城(酒々井町・佐倉市) に本拠を移した千葉氏に代わって、小弓地域は千葉氏の家宰(重臣筆頭)・原氏が治めていました。 しかし、 東京湾沿岸の制圧を目指す安房国の里見氏もこの地域への進出を狙っており、激しい戦いが繰り返されました。 水陸交通の要衝である小弓地域は千葉氏にとって重要で、 なんとしても守りたい領地でした。 南小弓城は、小弓城を守るため、上総方面へのおさえとして、この時期に原氏によって築かれたと考えられます。 原氏は、里見氏に対抗するため、同じく里見氏と敵対する小田原の北条氏と結んでいましたが、 その結果、千葉氏と並ぶ房総における北条氏側の有力な勢力になっていきました。 結局、 里見氏との戦いが終結し、原氏が小弓地域の支配を完全に取り戻すには、天正5年 (1577)...
Read more▼鎌倉で第1の尼寺であった太平寺の住職・青岳尼の古里ということで訪れました。 ▼まず小弓公方の小弓は「生実」と音だけ残り、漢字が違う土地名に何かいわくを感じます。どういう経緯で変わったのか調べてみたいです。 ▼地形的には確かに東京湾側への眺望は非常に良く、室町時代の頃には、この場所はかなり目立つことは十分に想像できますね。 ▼畑の中のお墓群の中にありますので、私が行った平日の夕方は人っこ一人いらっしゃらない、気配も感じませんでしたが、そこが古の城跡らしくて良い感じでした。 ▼小弓公方が滅びた後、安房の里見氏を頼った幼い青岳尼(勿論幼いころは尼ではありませんでしたが。)彼女がどうなったかについては、鎌倉の「太平寺跡」で書いておりま...
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