以前京都府京田辺市の寿宝寺を訪れた際に実際に千本の手をもつ千手観音像は日本に3体しかないと聞いていたうちの葛井寺の千手観音像を拝観することにしました。もう一つは唐招提寺の千手観音像との説明でしたが3体の中で最も本数が多いのがここ葛井寺の千手観音像とのことでした(後述のとおり1041本)。本尊の千手観音像のご開帳日は毎月18日限定でしたので、やっとこの日がとれて令和6年11月18日(月)に訪問いたしました。移動は電車移動で近鉄の藤井寺駅から徒歩で5分少しの移動時間といったところです。藤井寺駅では南口のロータリーが無い方(ちなみに北口は駅前広場がきれいに整備されていて再開発されている雰囲気)に降りて、南方面へと進み、途中、昭和レトロな雰囲気漂う商店街を通過していくと、葛井寺の西側の門に辿り着きます。お寺の正門は、南門のようですが、当日は帰り道の道中通過しました。なお、駐車場に関してはお寺専用駐車場は見当たらず、南門前にコインパーキングがあって車で来られていた参拝客の方はこちらの駐車場を利用されている様子でしたが、駐車場までのアクセス路の幅員は1車線程度の狭い道路ですので、運転に自信のない方は電車で来られることをお勧めいたします。一応駐車場と周辺道路の写真も載せておきますのでご参考に下さい。 さて、千手観音像の拝観は、本堂に入ると、向かって左手奥の方に受け付けの方が数名おられて、こちらで一人500円の拝観料を支払います。お寺の歴史や千手観音像の特徴の説明書きが入ったリーフレットをいただけます。この日は平日ではありましたが月に一度のご開帳日とあってか拝観者は混雑ほどではないにしろおおむね常に千手観音像の前には1,2名の参拝客の方が手を合わせているといったそれなりに賑わっているとの印象です。 お像の位置は、正面から数m離れた位置から、気持ち少し遠いかなと感じる距離から拝む形となりますが、千手観音像の両脇には異なる仏像が並んでおりこちらは間近に寄って拝観可能です。この場所から斜め方向から半分ほどですが、正面よりも近い距離から千手観音像を拝むことが出来ます。いずれにしましても、千本の手(正確には大手40本、小手1001本の計1041本)は圧巻です。長らく眺めていたかったのですが、後続の拝観者の方に場所をお譲りするためそれでも数分は立ち止まってしつこく拝観させていただきました。名残惜しみながら前述の斜め横からの姿を眺めながら、最後は心ゆくまで堪能することができたと思います。また、千手観音像の裏手側には関連VTRが放映していたり、葛井寺に伝わるそのほかの仏像や古文書の他、千手観音像の製作に関する説明書きや千手観音像の手の意味を解説したパネルが展示された千手観音像についてより深く知ることが出来る専用スペースになっています。お土産物も充実しているようでした。本堂を出たあとはお寺の境内を一通り巡り参拝を済ませ、前述のとおり南門から...
Read more聖武天皇 即位後まもなく725年 自身の厄除け祈願の勅願寺として開基され 開山は行基と伝わる 元は 聖武天皇の仏教興隆政策に積極的に協力した葛井連の氏寺として存在していたようです 発掘調査の出土瓦から7世紀後半には建立され8世紀前半までに伽藍の整備が行われていたとありますから 改姓前の白猪(しらい)氏の氏寺だったかもしれません 葛井連の祖先を手繰ったところ 中国系百済の渡来人 王辰爾(おうしんに)の兄 味沙にたどり着き その子 胆津(いつ)が祖とされてるみたいです お隣の高鷲駅近くの大津神社は王辰爾の弟 王牛の本拠地であり 兄弟揃って 此の辺りを治めていたようです 歴史を下っていくと 平城天皇と葛井藤子との間に生まれた阿保(あぼ)親王が807年再建とあり 母親のご先祖を想っての事でしょうか その子 在原業平も奥の院を造営したとされます この阿保親王 現:松原市に居を構え阿保神社他に由緒伝伝があり阿保(あお)という地名まであります 1096年 荒廃した伽藍を修理した大和国の藤井安基が藤井寺市の名の由来となり この寺院も「葛井寺」「藤井寺」と被るようになったようです 平安時代中期に花山法皇が再興した西国三十三所の札所と定められ ご詠歌 「参るより 頼みをかくる ふぢい寺 花のうてなに 紫の雲」を詠まれております 観音様に極楽へ導き願う歌なのですが 此の地を極楽に見立て藤の花を"ふんだん"に使っておられます 当時から藤の花が咲き誇っていたと想像が付きます 室町時代には興福寺の末寺として栄え 東西2つの三重塔をもつ薬師寺式伽藍配置とありますから 寺領もかなり広かったと想われ 又 興福寺は藤原氏の氏寺である事から 寺紋の「下がり藤」も ここから来ているのでしょうか🤔 その後は兵火や地震で堂塔を失い 1601年豊臣秀頼によって南大門として建てられた四脚門は重文として残されています(現在は西門として移築)
此の度は 藤のライトアップで寄させて頂き 昼間の良さとは また違った趣がありました 次回 機会がありましたら 実際に千本以上の手を持つ国宝...
Read more西国三十三ヶ所観音霊場の参拝でお伺いしました。 真言宗御室派のお寺で紫雲山葛井寺といい、霊場第五番札所になります。 御本尊は「千手観世音菩薩坐像」になります。 藤井寺市はもともと葛井寺の門前町として発達した町で地名もこの寺に由来しています。 古代から拓けた土地でこの地域に勢力を伸ばしたのが、渡来系の氏族で百済の王族の後裔という葛井氏であった。 葛井寺はその葛井氏の氏寺として七世紀半ばに創建されたと考えられており、寺伝では本尊は神亀二年(725年)聖武天皇の発願により行基が開眼したとされる。 本尊の国宝である千手観世音菩薩像は天平彫刻の傑作で、その出来映えは東大寺や興福寺の諸像にもひけをとらない。 葛井寺の千手観世音菩薩は正式には「千手千眼観世音菩薩」といい、文字通り「千の手」と「千の眼」を持つ千手観世音菩薩像である。 頭上に十一面をいただき正面で手を合わせる合掌手、錫杖・宝鉢・宝輪・数珠・蓮の花などを持つ四十本の大手に孔雀のように開く千一本の小手、合わせて千四十三本の手を持つ、さらに掌にはそれぞれ眼が描かれており正に千手千眼である、このように経典の規定通りに千の手を持つ像を《真数千手》と呼ぶが作例は少ない。 日本では千手観世音菩薩は四十二手とされるのが一般的で千手をあらわすのは唯一といえる遺例の一つである。 千の手を持つ像というと造形的に破綻をきたすものだが、葛井寺の千手観音は手を光背のように広げ端正な顔つきにのびやかな肢体、そして千手という超人的な姿を自然な調和をもってあらわした像容です。 御本尊の開帳は毎月十八日と八月九日(千日参りの日)ですが、本堂は下陣と内陣に区分されており薄暗いため、御本尊を細部まで見る事は出来ません、普段は秘仏のため厨子の扉は閉められています。 平成三十年(2018年)に東京国立科学博物館(平成館)での展示「仁和寺と御室派のみほとけ展」があり、お姿を三百六十度すべての位置から拝観しましたが、ただただ素晴らしい千手千眼観世音菩薩坐像でした。 葛井寺の千手観音は日本で現存する最古の千手...
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