村社 志式神社 粕屋郡和白村大字奈多字宮山
祭 神 火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十城別神、稚武王、葉山姫神
由 緒 十一月十九日祭典の事實によれば斯社創立千年前の如し、然れども年月を徴すべきものなし、𦾔暦正月上旬参詣多し、火難盗難難産を免ると云ふ天保年間徳川家慶の臣内田伊勢守よりの傳命なりとて筑州藩松平美濃守より盗難除祈禱の事を斯社頭に行はれし事あり。元禄十六年大野貞勝より御供米を寄附す、貞勝は此の方面に田を開墾せし人なり。大祭日六月十九日、二十日と十一月十九日、二十日兩度なり、十一月 は神楽の古實獻魚庖丁式等あり。千年来の典故なりと云傳ふ。明治五年十一月三日村社に被定。
例祭日 十二月十九日 神饌幣帛供料進指定 明治四十四年四月一日 主なる建造物 神殿、拝殿、御輿館、社務所、参籠殿 境内坪数 二千九十二坪 氏子区域及戸数 和白村大字奈多、約三百戸
境内神社 恵比須神社(事代主神、十城別神) 愛宕神社(迦具土神) 海積神社(綿津見神) 須賀 神社(須佐之男神) 稲荷神社(稲倉魂神)
福岡県神社誌
ーーーーーーーーーーーーーーーー 志式神社(ししきじんじゃ)と志式座(ししきざ)
志式神社(ししきじんじゃ) 神功(じんぐう)皇后三韓(さんかん)進軍の折此(こ)の奈多浜に鎮座(ちんざ)される荒(あら)ぶる神の御前にて戦捷(せんしょう)の神楽(かぐら)を奏して征途(せいと)につかれた、此の所を神楽岸又は躍坂(おどりざか)と伝え当時神功の料理に奉仕した祖先の意志が受けつがれ今日の早魚(はやま)神事として伝承される。 古(いにしえ)は三郎天神と称(たた)え後に志々岐(ししき)三郎天神と称えたのは志々岐の三郎が勧請合祀(かんじょうごうし)した故であろう、明治の代に至り志式神社と改称される祭神は火明神(ほあかりのみこと)、火酢芹神(ほすせりのみこと)、豊玉姫神(とよためひめのみこと)、十域別神(ときわけのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)、葉山姫神(はやまひめのみこと)で火難、盗難、難産を免(まぬが)れ家運を開く神として広く世に知られる。 正徳(しょうとく)五年正月、寫書(しゃしょ)の「奈多浦志々岐大明神之事」に、聖武(しょうむ)天皇の御宇観世音寺建立に当りご本尊を中華の國(くに)より運ぶ折、此の奈多沖にて急に大時化(おおしけ)に会い肥前の國五島の志々岐大明神を船中に勧請し祈願した所無事皈國(きこく)することが出来た。その後奈多の吹上浜に斯(こ)の社(やしろ)を建てその横に四尺三寸五分三尺六寸厚さ二寸二分の金の台座の上に赤銅の阿弥陀仏像を祭ったが、天正(てんしょう)十二年岩屋陣の戦の時島津兵が此の像を盗み皈(かえ)り后(のち)に刀の鍔(つば)に改鋳(かいちゅう)した。之が今日伝わる筑前の阿弥陀鍔の由来である。 此の由緒ある神社を永久に世に伝え限りなき神徳を氏子崇敬者(うじこすうけいしゃ)と共に讃(たた)えむ。(志式神社記より)
志式座(ししきざ) この常設舞台(ぶたい)「志式座」は、明治28年 (1895)に糟屋(かすや)郡久山町の猪野神社境内(いのじんじゃけいだい)から移 築されたもので、毎年4月1日の初老賀祭(しょろうがさい)(厄(やく)落とし)と7月19日・20日の奈多祇園(ぎおん)祭で使用されています。 建物は間口(まぐち)約18m、奥行約8m、このうち舞台は間口約12m、奥行約5mをはかります。移築後、両側面の 楽屋を拡大し、左手の花道などを新たに設けています。また茅(かや)の屋根を瓦(かわら)に葺(ふ)き替えています。舞台前には 盛土をして見所(観客席)が作られています。 天明4年(1784年)、疫病(えきびょう)と飢饉(ききん)退散の祈願成就(きがんじょうじゅ)のお礼に志式神社に「おどり」(芝居)が奉納され、以後 「万年願(まんねんがん)」と称(しょう)して、この舞台が移築されるまでは仮設舞台を組み立て、一年も欠くことなく「おどり」の 奉納が続けられてきたと伝えられています。 このような農村舞台はかつて西区や東区にもありましたが、現在市内ではこの「志式座」が残るだけとなっ...
Read more志式神社は、JR奈多駅の北西700mほどの福岡市東区奈多の集落のはずれにある奈多海岸の松林に囲まれた砂丘上に鎮座する神社です。旧社格は村社です。
志式神社記によると、神功皇后三韓進軍の折、此の奈多浜に鎮座される荒ぶる神の御前にて戦捷の神楽を奏して征途につかれた、此の所を神楽岸又は踊り坂と伝え、当時神功の料理に奉仕した祖先の意志が受けつがれ今日の早魚神事として伝承されます。 正徳5年(1715年)正月、寫書の「奈多浦志々岐大明神之事」に、聖武天皇の御宇観世音寺建立に当りご本尊を中華の國おり運ぶ折り、此の奈多沖にて急に大時化に会い肥前の國五島の志々岐大明神を船中に勧請し祈願した所無事皈國することが出来ました。その後奈多の吹上浜に斯の社を建て、その横に四尺三寸五分三尺六寸厚さ二寸二分の金の台座の上に赤銅の阿弥陀仏像を祀りましたが、天正12年(1589年)岩屋陣の戦の時島津兵がこの像を盗み皈り后に刀の鍔に改鋳しました。之が今日伝わる筑前の阿弥陀鍔の由来です。 古は三郎天神と称え後に志々岐三郎天神と称えたのは志々岐の三郎が勧請合祀し、明治の代に至り志式神社と改称される祭神は火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十域別心、稚武王、葉山姫神で火難、盗難、難産を免れ家運を開く神として広く世に知られます。
一の鳥居(昭和17年建立)をくぐった右手に建つ『志式座(福岡市指定文化財)』は、間口16.3m、奥行5.27mの桟瓦葺切妻平入の農村舞台で、舞台下手には7.22mの常設の花道が付属します。現在も神社の祭りで使用されています。
二の鳥居は大正5年の建立で、三の鳥居は明治18年の建立です。
御祭神は火明神、豊玉姫神などで、農業と漁業の神社として信仰されます。
拝殿のそばには、お潮井の砂が置かれています。 奈多地区では、奈多海岸のお潮井(真砂)をテボ(篭)に入れ、家の玄関口に備え、外出の時、身に振りかけて、災厄からのがれる事を祈り、家屋の新築の際には敷地を清め、田畑に撒いては豊作、虫よけを祈ります。
境内社として、蛭子神社・竜宮神社などがあります。 北側鳥居(昭和16年建立)を抜けて100mほど下ると奈多海岸にでます。
毎年11月19日(旧暦10月19日)の秋季大祭には、『はやま行事(福岡県指定無形民俗文化財)』が奉納されます。 これは、奈多にある4地区のうち2地区の若者が塩鯛を素早く料理して神に供える早さを競うものです。 伝説によると、三韓出兵に際して当地に軍議所を設けた神功皇后の饗応の奉仕が早魚行事になったと伝えられています。
神社のある「奈多(なた)」という地名は、かつてあった筑前福岡藩の糟屋郡(かすやぐん)奈多村に由来します。 明治22年(1889年)奈多村・下和白村・上和白村・三苫村・塩浜村が合併して、和白村が発足しました。 昭和29年(1954年)和白村が町制施行して和白町となりました。 昭和35年(1960年)和白町が福岡市に編入しました。
奈多という地名は、土地の形状である崖地・砂丘から「長処」(ながれた)あるいは「灘」(なだ)れる事から荒海を呼んだ事に由来します。 奈多の地は、江戸時代には「奈多落雁(なたらくがん)」として博多八景の一つに数えられていました。 大東亜戦争後は、海苔の養殖・加工が盛んで海苔小屋が複数ありました。 人口の増加とともに、昭和52年(1977年)奈多団地が建設され、それに伴い昭和56年(1981年)奈多小学校も開校し、現在のよ...
Read more住んでる所の近くなので、参拝しました。 太宰府天満宮、雁の巣神社とここが3箇所目です。 いくつか社殿があり、それぞれお参りしました。 決して大きくはありませんが、 やはり神社特有の厳粛な空気感は入った時から 感じます。 とても清々しい気分になります。
何故か神社っぽいBGMが流されてます。
医者から運動不足を指摘されているので この神社の脇道から雁の巣砂丘に向かって 歩きました。 福岡市に転入してきてやっと海を間近に 感じることが出来ました。 海は磯の匂いがひどいと思い込んで いたのですがここは比較的匂いはせず 太平洋側に比べて水質もキレイなようです。 山しかない県に生まれたので、 終の棲家...
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