私なりの「どうする家康トップ6」は、家康の三大危機とされる「三方ヶ原の合戦、三河一向一揆、伊賀越え」に加え、「長篠の合戦、大樹寺にて先祖の墓前で切腹を覚悟、妻子の粛清」となります。
「三方ヶ原の合戦」から浜松城まで逃げ帰る間にもし家康が討たれていたとしたら、徳川幕府による江戸時代は誕生せず、その後450年間の歴史は全く違うものとなっていたはずです。それほど重要な三方ヶ原の合戦が、暫く前までは教科書や歴史書等で軽く扱われてきたことを不思議に思っていたのですが、近年になって漸く脚光を浴びるようになり、地元民の私は喜んでいます。
元亀3年10月、甲斐を進発した2万5千の武田軍は駿府まで南進後、大井川を越えて遠江に入ると、高天神・天方・飯田等の諸城を降しながら西進を続けました。見附(磐田市)から天龍川東岸を北上すると、信州から兵越峠・青崩峠経由で合流した山県・秋山隊とともに二俣城を落としました。なお「兵越峠」は、まさに武田の兵が越えたことに由来します。
元亀3年12月22日(新暦の1573年1月25日)、武田軍は天龍川を渡ると浜松城を攻めると見せかけて南下し、信玄街道(その他に...
Read more修正 三方原古戦場として碑が在りますが、史跡として現存するものは無く、公共の墓苑が有るだけの為、ここを主目的地として来る価値は無いかな。 戦場も厳密にこの場だけという訳では無く、市の所有地で碑を建てやすいので形式的に碑が在るだけだと思われます。 堀江城を攻略すると見せかけた武田軍が家康を待ち受けたのは、この場から北側の最初の信号、根洗いの松から聖隷三方原病院の南側を流れて小さな谷を作っている大谷川の北側で、武田の別働隊に騙されて誘き出された家康側と投石や小競り合いが始まったのは夕方近く、姫街道、聖隷病院辺りの谷を挟んで対峙していた血気盛んな家臣達からで、現在の午後4時ごろだそう。 本戦は碑がある金指街道近辺から南の姫街道近辺と細長く、徳川側は備えが薄くなり最初から負け戦の可能性が高かった様です。 石碑がある辺りは、最初に敗走した信長の援軍がいた辺りに近く、家康の負け戦が始まった場所に近いのかも。 信玄本隊は都田の丸山から向きを変えて来た為、信玄の本陣は石碑よりも北東側の様です。
一般的に伝わる、家康を誘き寄せる為に武田軍が三方ヶ原台地を降るフリをして引き返したとされる祝田(ほうだ)の旧坂は、碑の横を通る国道の坂よりも数百メートル程西方にありますが、狭く曲がりくねった、軽トラで通れるかどうかの道なので車両での通行はやめた方が良いです。 また、家康との戦の後、体調が芳しく無い信玄が陣を置いて休養したとされる正確な場所は不明ですが、祝田坂よりも西方の刑部地区の刑部砦周辺とされ、近くに陣の平や陣座ケ谷(じんざがや)などの地名がある事から関係があるのかもしれません。 ついでに、女城主直虎でも有名な井伊家の出身地である井伊谷は、横の国道を数キロ程北方...
Read more三方原の戦いの古戦場碑と説明板が建っています。 戦国時代の一大ハイライトの地になります。 少し先に、祝田の旧坂がありますが、祝田の坂を降りたところでの合戦なのか、降りる手前で反転していたのかは意見が分かれるところです。 ただ、降りる道はとても狭く、大軍が通るのには数時間かかるとみられ、その情報を得た徳川軍がチャンスと思って城から出たところ、ひっかかってきた徳川軍を武田軍が散々に打ちのめした合戦だったのではないかというのが、現地に行くと分かるような気がします。 ちなみに、祝田の坂は、石碑の前を真っ直ぐ行くと突き当たり民家に入ってしまうため、坂の下に車を停めて登るのが正解だと思います。 説明板は平成28年となっていて、旧来の本隊は天竜川を南に進軍という説から、高天神城の傍を通...
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