HTML SitemapExplore
logo
Find Things to DoFind The Best Restaurants

Site of Futamata Castle — Attraction in Hamamatsu

Name
Site of Futamata Castle
Description
Futamata Castle was a Japanese castle located in Toyoda county of Tōtōmi Province, in what is now part of Tenryū-ku in the city of Hamamatsu, Shizuoka Prefecture, Japan. It was built in the Sengoku period and is noted as the site of the death of Tokugawa Ieyasu's son Matsudaira Nobuyasu in 1579.
Nearby attractions
Shiroshita Park
1065-5 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
Tobayama Park
2364 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
Soichiro Honda Craftsmanship Center
1112 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
Akino Fuku Art Museum
130 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
Kajima Bridge
Japan, 〒431-3313 Shizuoka, Hamamatsu, Tenryū Ward, Futamatacho Kajima, 秋葉街道
Nearby restaurants
Saito Ramen
1573 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
天然物料理 竹染
Japan, 〒431-3314 Shizuoka, Hamamatsu, Tenryū Ward, Futamatacho Futamata, 2177 竹染
森のマルシェきころ
1266-1 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
Haru Sushitoyo
1557 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
Nearby hotels
駅舎ホテル INN MY LIFE
1605-7 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
ふか家旅館
1560-4 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
Miuraya
Japan, 〒431-3314 Shizuoka, Hamamatsu, Tenryū Ward, Futamatacho Futamata, 1400-2 旅館三浦屋
Owariya
1291 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
Related posts
Keywords
Site of Futamata Castle tourism.Site of Futamata Castle hotels.Site of Futamata Castle bed and breakfast. flights to Site of Futamata Castle.Site of Futamata Castle attractions.Site of Futamata Castle restaurants.Site of Futamata Castle travel.Site of Futamata Castle travel guide.Site of Futamata Castle travel blog.Site of Futamata Castle pictures.Site of Futamata Castle photos.Site of Futamata Castle travel tips.Site of Futamata Castle maps.Site of Futamata Castle things to do.
Site of Futamata Castle things to do, attractions, restaurants, events info and trip planning
Site of Futamata Castle
JapanShizuoka PrefectureHamamatsuSite of Futamata Castle

Basic Info

Site of Futamata Castle

990 Futamatacho Futamata, Tenryū Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-3314, Japan
3.9(244)
Open until 12:00 AM
Save
spot

Ratings & Description

Info

Futamata Castle was a Japanese castle located in Toyoda county of Tōtōmi Province, in what is now part of Tenryū-ku in the city of Hamamatsu, Shizuoka Prefecture, Japan. It was built in the Sengoku period and is noted as the site of the death of Tokugawa Ieyasu's son Matsudaira Nobuyasu in 1579.

Cultural
Outdoor
Adventure
Scenic
Family friendly
Off the beaten path
attractions: Shiroshita Park, Tobayama Park, Soichiro Honda Craftsmanship Center, Akino Fuku Art Museum, Kajima Bridge, restaurants: Saito Ramen, 天然物料理 竹染, 森のマルシェきころ, Haru Sushitoyo
logoLearn more insights from Wanderboat AI.
Website
city.hamamatsu.shizuoka.jp
Open hoursSee all hours
SatOpen 24 hoursOpen

Plan your stay

hotel
Pet-friendly Hotels in Hamamatsu
Find a cozy hotel nearby and make it a full experience.
hotel
Affordable Hotels in Hamamatsu
Find a cozy hotel nearby and make it a full experience.
hotel
The Coolest Hotels You Haven't Heard Of (Yet)
Find a cozy hotel nearby and make it a full experience.
hotel
Trending Stays Worth the Hype in Hamamatsu
Find a cozy hotel nearby and make it a full experience.

Reviews

Nearby attractions of Site of Futamata Castle

Shiroshita Park

Tobayama Park

Soichiro Honda Craftsmanship Center

Akino Fuku Art Museum

Kajima Bridge

Shiroshita Park

Shiroshita Park

3.9

(14)

Open 24 hours
Click for details
Tobayama Park

Tobayama Park

3.9

(132)

Open 24 hours
Click for details
Soichiro Honda Craftsmanship Center

Soichiro Honda Craftsmanship Center

4.2

(540)

Open 24 hours
Click for details
Akino Fuku Art Museum

Akino Fuku Art Museum

4.1

(280)

Open until 5:00 PM
Click for details

Nearby restaurants of Site of Futamata Castle

Saito Ramen

天然物料理 竹染

森のマルシェきころ

Haru Sushitoyo

Saito Ramen

Saito Ramen

3.6

(208)

Click for details
天然物料理 竹染

天然物料理 竹染

4.6

(92)

$$

Click for details
森のマルシェきころ

森のマルシェきころ

4.2

(202)

Click for details
Haru Sushitoyo

Haru Sushitoyo

4.5

(21)

$$

Click for details
Get the Appoverlay
Get the AppOne tap to find yournext favorite spots!
Wanderboat LogoWanderboat

Your everyday Al companion for getaway ideas

CompanyAbout Us
InformationAI Trip PlannerSitemap
SocialXInstagramTiktokLinkedin
LegalTerms of ServicePrivacy Policy

Get the app

© 2025 Wanderboat. All rights reserved.
logo

Posts

玉木造玉木造
▼西上作戦で青崩峠・兵越峠を越えて北遠州に攻め入る武田信玄が、松平(徳川)側のこの城を落としました。 ▼天竜川の脇の河岸段丘に造られたこの城は、かなり堅固な作りだったようで、武田軍も落とすのに時間がかかりました。 ▼ただ流石信玄、城をよく観察し、この城が天竜川から飲料水を引き上げる楼が建っていること、楼は城壁の外側、川面の上に建てられているが、この楼を崩しに兵を出すと、城壁から鉄砲や矢をつるべ撃ちに撃たれて、全滅せざるを得ないこと。 ▼ではどうするか?考えたのは、天竜川の上流の木を切り倒し、どんどん流して、この楼を立てている基礎の柱にぶつけて破壊するというユニークな戦法を取ります。 ▼単純に大木を流すだけでは簡単には破壊できないかもしれません。そこで大雨が降って天竜川が増水するタイミングを狙い、一気に基礎にぶつかるように流し込むと予想通り、楼が壊れます。 ▼楼を立て直そうと兵が出てきたところで、陽動作戦の兵を出し、二俣城の城兵の大半をこちらの城壁側へ集め、その隙に、大手門側へ武田軍の主力を投入して、一気に落としました。 ▼しかし、信玄が西上作戦途中で急死すると再び、二俣城は家康の手に戻ります。 ▼ところがこの城は、その後、家康の長男・信康の切腹の場所となるのです。 ▼岡崎城主だった信康が、この二俣城まで連れてこられて切腹させられたのは何か意味があるのでしょうか?ご存じの通り、信康は母・築山御前(瀬名姫)と共謀して信玄亡き後の後継・武田勝頼と通じていたとの疑惑で切腹させられたとの説が有力です。 ▼であるのに、わざわざ武田領と国境近いこの城に連れてこられたのは、万が一、武田側から信康を奪うことを期待して?と、この城跡に来て勝手に想像してしまいました。 ▼というのは、信康の介錯をしたのは、服部半蔵正成。涙を流しながら信康の首を切ったと言いますが、正成が活躍するのは上の郷城の時もそうですが、結構隠密的な活動をする時が多いのです。なので、「もしかして、正成に武田領へ信康を上手く逃がす周旋を裏で家康はお願いしていたのでは?」と想像してしまいました。(笑)
Toshi AndyToshi Andy
【2025年4月 再訪🏃】 ☆『鳥羽山城跡』登城と共に訪問⚔️ ・天竜川と二俣川に挟まれた台地の先端部、本丸から階段状に曲輪を配置した「連郭式平山城」 ・今川氏vs徳川氏vs武田氏激戦の地 ・天下人「徳川家康」と嫡男「岡崎三郎信康」親子の悲劇の城 1600年廃城も天正文禄期1580~90年代の石垣が今も良い状態で残っている事が驚き、特に天守台と大手虎口は素敵です‼️ ⭐️武田も徳川も力攻めでは落とせなかった天然の要害難攻な城砦、信州から遠州平野への出口となる交通の要衝。 ・1572年、徳川方1200:主将/中根正照、副将/青木吉継vs武田方30000:武田勝頼、馬場信春、山県昌景…城方の水源、武田方に天竜川の井戸櫓を破壊され、城方は水欠乏し降伏開城、武田方の城に。 ⇒武田勢南下し三方ケ原にて両者激突🐎 ・1575年、長篠設楽原の戦いで武田方大敗し武田家の影響力に翳り、家康反攻に転じ北遠江の武田方各拠城を支配下に、二俣城だけ城将/依田信蕃により約6ヶ月間堅固陥落せず、兵糧攻め、後に城兵の安全退却条件に開城、徳川譜代/大久保忠世を城主とし入城。 ⇒依田信蕃…武田家滅亡後、徳川家康家臣に ⭐️家康嫡子/松平信康が幽閉自刃した城 ・本当の真相は闇の中…1579年頃に衰退した武田家と内通陰謀?素行悪行の結果?徳川家内の信康/岡崎衆と家康/浜松衆の確執?何なんだホントは⁉️ ⭐️中世の土造りの城と近世初期の石垣の城の融合、土塁に玉石が見えるのは天竜川・二俣川の河原石で補強でしょうか、石垣は野面積みが主体、天守台石垣も頑張ってる初期の算木積み拝見、中々状態良好👀もう少し天竜川側の景観が開けてたら凄いだろうな~と素直に思いました。 ⭐️鳥羽山城と「一城別郭」の城砦なんですね🤔
ngngst3ngngst3
今川義元の家臣の松井宗信が笹岡古城にあった城を天竜川を見下ろす現在の場所に移したのが始まりといわれています。今川氏の滅亡後は武田氏の傘下となりますが、家康により落とされますが、再度武田信玄の遠江侵略の際に二俣城攻略の主将となった武田勝頼は攻めあぐねたものの、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見し、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したというエピソードが有名です。長篠の戦いの後再度徳川が落とし、大久保忠世入ります。1579年には家康の長男信康が織田信長に武田氏との内通を疑われ、二俣城で切腹するという事件も起こっています。徳川氏の関東移封後は堀尾吉晴が浜松城に入りますが、関ヶ原の戦い後に堀尾氏の転出とととに廃城となりました。 7月平日の夕方に車で訪問しました、二俣城の入り口を少し過ぎたところに5台程度の駐車場があります、駐車場までの坂道が狭いので注意してください。登城口から階段を上がり本丸と北曲輪の間に作られた小さな橋をくぐると、左手に石垣で築かれた食い違い虎口、その後ろに本丸が広がります。本丸には野面積みで作られた天守台がきれいに残っており印象的で、天守台に登って本丸を見渡すこともできます。川側には木々が生い茂っているため、天竜川の流れをよく見ることはできませんでしたが、当時の縄張りから二俣城がいかに天然の要害だったか伺い知ることができます。
See more posts
See more posts
hotel
Find your stay

Pet-friendly Hotels in Hamamatsu

Find a cozy hotel nearby and make it a full experience.

▼西上作戦で青崩峠・兵越峠を越えて北遠州に攻め入る武田信玄が、松平(徳川)側のこの城を落としました。 ▼天竜川の脇の河岸段丘に造られたこの城は、かなり堅固な作りだったようで、武田軍も落とすのに時間がかかりました。 ▼ただ流石信玄、城をよく観察し、この城が天竜川から飲料水を引き上げる楼が建っていること、楼は城壁の外側、川面の上に建てられているが、この楼を崩しに兵を出すと、城壁から鉄砲や矢をつるべ撃ちに撃たれて、全滅せざるを得ないこと。 ▼ではどうするか?考えたのは、天竜川の上流の木を切り倒し、どんどん流して、この楼を立てている基礎の柱にぶつけて破壊するというユニークな戦法を取ります。 ▼単純に大木を流すだけでは簡単には破壊できないかもしれません。そこで大雨が降って天竜川が増水するタイミングを狙い、一気に基礎にぶつかるように流し込むと予想通り、楼が壊れます。 ▼楼を立て直そうと兵が出てきたところで、陽動作戦の兵を出し、二俣城の城兵の大半をこちらの城壁側へ集め、その隙に、大手門側へ武田軍の主力を投入して、一気に落としました。 ▼しかし、信玄が西上作戦途中で急死すると再び、二俣城は家康の手に戻ります。 ▼ところがこの城は、その後、家康の長男・信康の切腹の場所となるのです。 ▼岡崎城主だった信康が、この二俣城まで連れてこられて切腹させられたのは何か意味があるのでしょうか?ご存じの通り、信康は母・築山御前(瀬名姫)と共謀して信玄亡き後の後継・武田勝頼と通じていたとの疑惑で切腹させられたとの説が有力です。 ▼であるのに、わざわざ武田領と国境近いこの城に連れてこられたのは、万が一、武田側から信康を奪うことを期待して?と、この城跡に来て勝手に想像してしまいました。 ▼というのは、信康の介錯をしたのは、服部半蔵正成。涙を流しながら信康の首を切ったと言いますが、正成が活躍するのは上の郷城の時もそうですが、結構隠密的な活動をする時が多いのです。なので、「もしかして、正成に武田領へ信康を上手く逃がす周旋を裏で家康はお願いしていたのでは?」と想像してしまいました。(笑)
玉木造

玉木造

hotel
Find your stay

Affordable Hotels in Hamamatsu

Find a cozy hotel nearby and make it a full experience.

Get the Appoverlay
Get the AppOne tap to find yournext favorite spots!
【2025年4月 再訪🏃】 ☆『鳥羽山城跡』登城と共に訪問⚔️ ・天竜川と二俣川に挟まれた台地の先端部、本丸から階段状に曲輪を配置した「連郭式平山城」 ・今川氏vs徳川氏vs武田氏激戦の地 ・天下人「徳川家康」と嫡男「岡崎三郎信康」親子の悲劇の城 1600年廃城も天正文禄期1580~90年代の石垣が今も良い状態で残っている事が驚き、特に天守台と大手虎口は素敵です‼️ ⭐️武田も徳川も力攻めでは落とせなかった天然の要害難攻な城砦、信州から遠州平野への出口となる交通の要衝。 ・1572年、徳川方1200:主将/中根正照、副将/青木吉継vs武田方30000:武田勝頼、馬場信春、山県昌景…城方の水源、武田方に天竜川の井戸櫓を破壊され、城方は水欠乏し降伏開城、武田方の城に。 ⇒武田勢南下し三方ケ原にて両者激突🐎 ・1575年、長篠設楽原の戦いで武田方大敗し武田家の影響力に翳り、家康反攻に転じ北遠江の武田方各拠城を支配下に、二俣城だけ城将/依田信蕃により約6ヶ月間堅固陥落せず、兵糧攻め、後に城兵の安全退却条件に開城、徳川譜代/大久保忠世を城主とし入城。 ⇒依田信蕃…武田家滅亡後、徳川家康家臣に ⭐️家康嫡子/松平信康が幽閉自刃した城 ・本当の真相は闇の中…1579年頃に衰退した武田家と内通陰謀?素行悪行の結果?徳川家内の信康/岡崎衆と家康/浜松衆の確執?何なんだホントは⁉️ ⭐️中世の土造りの城と近世初期の石垣の城の融合、土塁に玉石が見えるのは天竜川・二俣川の河原石で補強でしょうか、石垣は野面積みが主体、天守台石垣も頑張ってる初期の算木積み拝見、中々状態良好👀もう少し天竜川側の景観が開けてたら凄いだろうな~と素直に思いました。 ⭐️鳥羽山城と「一城別郭」の城砦なんですね🤔
Toshi Andy

Toshi Andy

hotel
Find your stay

The Coolest Hotels You Haven't Heard Of (Yet)

Find a cozy hotel nearby and make it a full experience.

hotel
Find your stay

Trending Stays Worth the Hype in Hamamatsu

Find a cozy hotel nearby and make it a full experience.

今川義元の家臣の松井宗信が笹岡古城にあった城を天竜川を見下ろす現在の場所に移したのが始まりといわれています。今川氏の滅亡後は武田氏の傘下となりますが、家康により落とされますが、再度武田信玄の遠江侵略の際に二俣城攻略の主将となった武田勝頼は攻めあぐねたものの、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見し、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したというエピソードが有名です。長篠の戦いの後再度徳川が落とし、大久保忠世入ります。1579年には家康の長男信康が織田信長に武田氏との内通を疑われ、二俣城で切腹するという事件も起こっています。徳川氏の関東移封後は堀尾吉晴が浜松城に入りますが、関ヶ原の戦い後に堀尾氏の転出とととに廃城となりました。 7月平日の夕方に車で訪問しました、二俣城の入り口を少し過ぎたところに5台程度の駐車場があります、駐車場までの坂道が狭いので注意してください。登城口から階段を上がり本丸と北曲輪の間に作られた小さな橋をくぐると、左手に石垣で築かれた食い違い虎口、その後ろに本丸が広がります。本丸には野面積みで作られた天守台がきれいに残っており印象的で、天守台に登って本丸を見渡すこともできます。川側には木々が生い茂っているため、天竜川の流れをよく見ることはできませんでしたが、当時の縄張りから二俣城がいかに天然の要害だったか伺い知ることができます。
ngngst3

ngngst3

See more posts
See more posts

Reviews of Site of Futamata Castle

3.9
(244)
avatar
4.0
2y

▼西上作戦で青崩峠・兵越峠を越えて北遠州に攻め入る武田信玄が、松平(徳川)側のこの城を落としました。 ▼天竜川の脇の河岸段丘に造られたこの城は、かなり堅固な作りだったようで、武田軍も落とすのに時間がかかりました。 ▼ただ流石信玄、城をよく観察し、この城が天竜川から飲料水を引き上げる楼が建っていること、楼は城壁の外側、川面の上に建てられているが、この楼を崩しに兵を出すと、城壁から鉄砲や矢をつるべ撃ちに撃たれて、全滅せざるを得ないこと。 ▼ではどうするか?考えたのは、天竜川の上流の木を切り倒し、どんどん流して、この楼を立てている基礎の柱にぶつけて破壊するというユニークな戦法を取ります。 ▼単純に大木を流すだけでは簡単には破壊できないかもしれません。そこで大雨が降って天竜川が増水するタイミングを狙い、一気に基礎にぶつかるように流し込むと予想通り、楼が壊れます。 ▼楼を立て直そうと兵が出てきたところで、陽動作戦の兵を出し、二俣城の城兵の大半をこちらの城壁側へ集め、その隙に、大手門側へ武田軍の主力を投入して、一気に落としました。 ▼しかし、信玄が西上作戦途中で急死すると再び、二俣城は家康の手に戻ります。 ▼ところがこの城は、その後、家康の長男・信康の切腹の場所となるのです。 ▼岡崎城主だった信康が、この二俣城まで連れてこられて切腹させられたのは何か意味があるのでしょうか?ご存じの通り、信康は母・築山御前(瀬名姫)と共謀して信玄亡き後の後継・武田勝頼と通じていたとの疑惑で切腹させられたとの説が有力です。 ▼であるのに、わざわざ武田領と国境近いこの城に連れてこられたのは、万が一、武田側から信康を奪うことを期待して?と、この城跡に来て勝手に想像してしまいました。 ▼というのは、信康の介錯をしたのは、服部半蔵正成。涙を流しながら信康の首を切ったと言いますが、正成が活躍するのは上の郷城の時もそうですが、結構隠密的な活動をする時が多いのです。なので、「もしかして、正成に武田領へ信康を上手く逃がす周旋を裏で家康はお願いしていたのでは?」と想像...

   Read more
avatar
3.0
4y

二俣城は天龍川と二俣川に挟まれた水路と陸路の要衝に立地し、天龍川を背に80mの崖の上に築かれた、戦略上重要な徳川家康の拠点でした。残されている天守台の石垣から推測すると、天守閣の規模は意外に小さかったようです。

元亀3年11月(1572年)、甲斐を進発した2万5千の武田信玄本隊は駿府まで南進後、大井川を越えて遠江に入ると、高天神(異説もあり)・天方・飯田等の諸城を降しながら西進を続けました。一言坂の戦い(磐田市)の後は天龍川東岸を北上し、信州から兵越(ひょうごし)峠・青崩峠経由で合流した山県・秋山隊とともに二俣城を攻めました。

籠城していた将兵は水の手を切られたため、天龍川からつるべで水を汲んでいました。しかし筏(いかだ)による攻撃で水の手櫓を破壊されて水の供給が絶たれた末、二俣城は落城しました。武田軍は暫くの逗留後、12月22日に秋葉街道を浜松城方向に南下し、いわゆる「信玄街道」を三方原台地に登ると、突然浜松城に背を向けて北上を始め、それを追いかけた家康軍との間に起きたのが「三方ヶ原の合戦」です。なお3年後の1575年、長篠の合戦をはじめとする緒戦で勝頼の武田軍に勝ち、勢い付いた家康は二俣城を奪還しました。

徳川家康の嫡男岡崎三郎信康は、21歳という若さで父に命じられて二俣城で切腹した後、500mほど離れた清瀧寺に葬られました。なお信康と同じく、家康に命を絶たれた母の築山御前は、浜松城の西800mにある西来院の月窟廟に眠っています。二俣城天守台に立つ度に、徳川・武田攻防戦の光景が偲ばれ、家康により若い命を絶たれた築山御前と信康の無念を考えずにはいられません。

近くにある清瀧寺と、二俣城を奪還するため、家康が前線基地として本陣を敷いた鳥羽山城跡も併せて訪...

   Read more
avatar
4.0
4y

【2025年4月...

   Read more
Page 1 of 7
Previous
Next