▼西上作戦で青崩峠・兵越峠を越えて北遠州に攻め入る武田信玄が、松平(徳川)側のこの城を落としました。 ▼天竜川の脇の河岸段丘に造られたこの城は、かなり堅固な作りだったようで、武田軍も落とすのに時間がかかりました。 ▼ただ流石信玄、城をよく観察し、この城が天竜川から飲料水を引き上げる楼が建っていること、楼は城壁の外側、川面の上に建てられているが、この楼を崩しに兵を出すと、城壁から鉄砲や矢をつるべ撃ちに撃たれて、全滅せざるを得ないこと。 ▼ではどうするか?考えたのは、天竜川の上流の木を切り倒し、どんどん流して、この楼を立てている基礎の柱にぶつけて破壊するというユニークな戦法を取ります。 ▼単純に大木を流すだけでは簡単には破壊できないかもしれません。そこで大雨が降って天竜川が増水するタイミングを狙い、一気に基礎にぶつかるように流し込むと予想通り、楼が壊れます。 ▼楼を立て直そうと兵が出てきたところで、陽動作戦の兵を出し、二俣城の城兵の大半をこちらの城壁側へ集め、その隙に、大手門側へ武田軍の主力を投入して、一気に落としました。 ▼しかし、信玄が西上作戦途中で急死すると再び、二俣城は家康の手に戻ります。 ▼ところがこの城は、その後、家康の長男・信康の切腹の場所となるのです。 ▼岡崎城主だった信康が、この二俣城まで連れてこられて切腹させられたのは何か意味があるのでしょうか?ご存じの通り、信康は母・築山御前(瀬名姫)と共謀して信玄亡き後の後継・武田勝頼と通じていたとの疑惑で切腹させられたとの説が有力です。 ▼であるのに、わざわざ武田領と国境近いこの城に連れてこられたのは、万が一、武田側から信康を奪うことを期待して?と、この城跡に来て勝手に想像してしまいました。 ▼というのは、信康の介錯をしたのは、服部半蔵正成。涙を流しながら信康の首を切ったと言いますが、正成が活躍するのは上の郷城の時もそうですが、結構隠密的な活動をする時が多いのです。なので、「もしかして、正成に武田領へ信康を上手く逃がす周旋を裏で家康はお願いしていたのでは?」と想像...
Read more二俣城は天龍川と二俣川に挟まれた水路と陸路の要衝に立地し、天龍川を背に80mの崖の上に築かれた、戦略上重要な徳川家康の拠点でした。残されている天守台の石垣から推測すると、天守閣の規模は意外に小さかったようです。
元亀3年11月(1572年)、甲斐を進発した2万5千の武田信玄本隊は駿府まで南進後、大井川を越えて遠江に入ると、高天神(異説もあり)・天方・飯田等の諸城を降しながら西進を続けました。一言坂の戦い(磐田市)の後は天龍川東岸を北上し、信州から兵越(ひょうごし)峠・青崩峠経由で合流した山県・秋山隊とともに二俣城を攻めました。
籠城していた将兵は水の手を切られたため、天龍川からつるべで水を汲んでいました。しかし筏(いかだ)による攻撃で水の手櫓を破壊されて水の供給が絶たれた末、二俣城は落城しました。武田軍は暫くの逗留後、12月22日に秋葉街道を浜松城方向に南下し、いわゆる「信玄街道」を三方原台地に登ると、突然浜松城に背を向けて北上を始め、それを追いかけた家康軍との間に起きたのが「三方ヶ原の合戦」です。なお3年後の1575年、長篠の合戦をはじめとする緒戦で勝頼の武田軍に勝ち、勢い付いた家康は二俣城を奪還しました。
徳川家康の嫡男岡崎三郎信康は、21歳という若さで父に命じられて二俣城で切腹した後、500mほど離れた清瀧寺に葬られました。なお信康と同じく、家康に命を絶たれた母の築山御前は、浜松城の西800mにある西来院の月窟廟に眠っています。二俣城天守台に立つ度に、徳川・武田攻防戦の光景が偲ばれ、家康により若い命を絶たれた築山御前と信康の無念を考えずにはいられません。
近くにある清瀧寺と、二俣城を奪還するため、家康が前線基地として本陣を敷いた鳥羽山城跡も併せて訪...
Read more【2025年4月...
Read more