明王山浄心寺は曹洞宗で平塚市吉沢(きさわ)の松岩寺(しょうがんじ)の末寺(まつじ)である。 享禄(きょうろく)元年(1528)に月松宋尖和尚により開山された。
ご本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)ですが山号・院号・寺号の「明王山 不動院 浄心寺(めいおうざん ふどういん じょうしんじ)」からすれば不動明王(ふどうみょうおう)であっても良いのに何故か虚空蔵菩薩です。 「新編相模風土記」に記載があるので江戸時代には既に虚空蔵菩薩であったようです。 禅宗なのに密教の仏である虚空蔵菩薩が安置されている事実は大変興味があります。 私が知る限りで同じ禅宗なのに虚空蔵菩薩を本尊にしている臨済宗妙心寺派の浜松市井伊谷(遠江とうとうみ)にある徳川家に縁ある古刹「萬松山龍譚寺」です。 浄心寺も天正十九年に徳川家より御朱印を賜っている様なので本堂屋根の家紋が葵紋なのか疑問です。
浄心寺が開山される前、観応(かんのう)1350年間のころ、城所には城所籐五郎正揚(きどころとうごろうまさやす)という足利尊氏の家来が館を構えていた。この館は現在の浄心寺境内にあったといわれています。当時の館の歴史的記録として、正和(しょうわ)三年(1214)文和(ぶんわ)年間1352年頃の板碑が3枚出土しています。
浄心寺の参道を入ると山門は丸嵩石、丸柱の四脚門で銅葺きの切妻屋根構造である。年代は不詳であるが作風から本堂と同時代と考えられる。軒下には世田谷豪徳寺の巨海東流(おおみとうりゅう)揮毫(きごう)なる白抜き文字の「明王山」の変額が架かる。
中門の手前には12段の石段があり左右に石灯籠が2躯、左手に赤い頭巾がかかった六地蔵、右側には「子育地蔵菩薩坐像」が安置されています。建立は當山二十二世卍宋和尚の誓願による。 子育地蔵菩薩坐像の右には十六世住持の宝筺印塔、地蔵菩薩2躯、石塔1躯、奥に聖観音、如意輪観音、千手観音菩薩立像の3躯
中門からの本堂までは敷石と波形に玉石が敷き詰められ実に清清しい。
本堂は元治元年(1864)に建立され、棟札によれば「寄棟造茅葺、向拝唐破風(こうはいからかふ)、桁行五十八尺、梁行四十九.三尺」 本堂唐破風(からかふ)の縣魚(げぎょ)として「鳳凰、金剛力士、竜」の三装飾の意味は深く、また実に素晴らしい朔造である。 この唐破風の鳳凰については金沢文庫の称名寺の仁王門の鳳凰によく似ています。 棟梁は鎌倉郡高屋村永井文蔵、脇棟梁は上平間熊沢佐吉、金沢須崎、彫工は永井忠蔵ほか城所住人485名。
向拝(こうはい、ごはい)…日本の寺院建築・神社建築において、仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分のこと。仏堂や社殿入口の階段上に設けられる場合が多いことから「階隠」(はしかくし)とも。
破風(はふ)… 切妻造や入母屋造の屋根の妻の三角形の部分。また切妻屋根の棟木や軒桁の先端に取付けた合掌型の装飾板 (破風板) をもいう。普通は凹曲線をなすが,途中が高くなった起 (むく) り破風,反転曲線から成る唐 (から) 破風がある。また尾根面につけられた千鳥破風,向拝など片流れの縋 (すがる)...
Read more❶【参考 新編相模風土記稿 1830年】
浄心寺 江戸の頃の本によるこのお寺の紹介文
本尊のかたわらに不動明王を安置する。山院の號はこれにちなんでいると思われる。もしかすると、昔はこの像(不動明王)を本尊としたのではないのだろうか、とある。
昔は村の西北の方角にあったが、後に今の地に移った。 旧地を浄心寺元地と称す。ただし、移転の事は寺にては伝えていない。
境内北の方角の山の上に古城址がある。[城跡※1] △鐘楼 1758年(宝暦8年)再鋳造の鐘をかける。 △白山社 △秋葉社 △稲荷社 △山神社 △地蔵堂 △禅堂
1591年(天正19年)11月 徳川家より寺領2石の御朱印を賜る。
[城跡※1] 誰の居城であったのか、伝わっていない。 或る説によると、左大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)8世の孫、糟屋盛久(かすやもりひさ)の四男の城所四郎_盛直(もりなお)の居城であったという。 観応の頃(1350年~1352年)に城所藤五郎正揚が当所に住んでいたというから、城所(じょうしょ)氏代々の居城であると思われる。 其の子孫の藤五郎_直賢(なおかた)の時に三州中市場砦(愛知県)に移ったという。
[號] 明王山不動院 [宗教] 曹洞宗 下吉澤村 松岩寺 末 [開山] 月松宗尖 1577年(天正5年)2月22日...
Read moreのどかな田園地帯の住宅街に隣接した寺院。 親戚が永眠しているのでたまに伺います。 バケツや柄杓は...
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