伊野天照皇大神宮☺
駐車場🅿有り トイレ🚻有り 車椅子♿難しいです トイレは駐車場のそばにありますが本殿にあがるまでに階段があります。
鳥居は伊勢神宮と同じで神明(しんめい)鳥居又は伊勢鳥居というそうです。 貫(ぬき・二番目の横棒)が柱を貫通していないのが特徴です🐈
鳥居の向こうに拝殿と、右のほうに岩井の滝があります 久山出身で浄土宗総本山知恩院 岩井大僧正の寄付で造られたので この名前がついたようです☺
ご祭神 天照大神 卑弥呼、神武天皇の姉 手力雄神 神武天皇、家来の1人 萬幡千々姫命 ニニギノミコトの姉
神殿や建物の配置も伊勢神宮を模して築造されているそうです。 伊勢神宮の20年に1度の式年遷宮の際、建て替えられるときに出た木材(再利用)で こちらを建て替えられていたということでした🐈
拝殿正面に「雲従龍」と書かれた扁額が掲げてあります。 「立派な君主のもとには優れた臣下が現れる」ということの例えで、 伊野皇大神宮(龍)の御神徳を崇敬する人々(雲)が多数で集まり、 ご加護を得て平和に繁栄することを表しているそうです。
合祀 水取宮祭神 五霊大明神 住吉三神...
Read more伊野天照皇神宮は、福岡ICの北東6.4kmほどの久山町猪野(旧糟屋郡山田村大字猪野字別所)猪野川沿いに鎮座している神社です。旧社格は県社です。
「九州の伊勢」とも呼ばれています。 仲哀天皇9年(200年)熊襲征伐の途中、仲哀天皇は「われを祭れば、戦をせずとも財宝の国を得ることができる」という神の託宣を疑ったために、その祟りをうけ香椎宮で崩御したといわれます。そのことを知った神功皇后は、小山田の村に斎宮(いつきのみや)を建て、自ら神主となり、天照大神を祀ったとされます。 『三代実録』巻卅二に、「元慶元年(877年)12月15日辛巳(原作壬午)授筑前国従五位下織幡神正五位下。正六位下天照神従五位下。」とあります。 室町時代の末期には、都で大神の祭祀を司っていた豊丹生有時が、座列争いの罪で豊前国英彦山の麓に流されたとき、大神の御神体も豊前に移しました。有時の子・兵庫大夫は神のお告げをうけて、御神体を伊野(猪野)に移し、宮居を建てました。 天正14年(1586年)、立花城を攻めた島津氏は伊野にも侵入すると、兵庫大夫は御神体を守ろうと竃門山に隠しましたが、島津兵はこれを奪って薩摩国に持ち去ろうとしました。しかし途中で神の祟りを恐れて豊後国柞原八幡宮に納めました。その後、柞原の宮司に「伊野の里に帰すべし」との大神の託宣があり、柞原の宮司はその旨を伊野に知らせたので、兵庫大夫は御神体を再び伊野に迎え、以前のとおりお祀りすることができるようになったと伝えられています。 立花城主戸次道雪、名島城主小早川隆景、筑前藩主黒田長政など大名も崇敬しました。 筑前藩第3代藩主黒田光之は、延宝5年(1677年)に別所に社殿を造営し、大神宮を遷移し、造営に際して宮司豊丹生信重と工匠工藤太夫清重を伊勢神宮に派遣して、本殿から鳥居に至るまで伊勢神宮に模して造らせました。
20年毎の式年遷宮も行われていて、前回は平成19年(2007年)4月8日に挙行されました。
御祭神は、天照大神・手力雄神・萬幡千々姫命で、水取宮祭神 五霊大明神 住吉三神 志賀三神も合祀されています。
毎年春には大祭が催され、剣道や柔道の奉納試合に多くの人が訪れます。 境内に生える欅の大木は町指定文化財に指定されており、周囲に自生する紅葉は秋の境内を美しく彩ります。
伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にあり、正式名称は「神宮」です。現在は神社本庁の本宗(ほんそう:全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされます。 律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め、平安時代には二十二社の中のさらに上七社の1社となりました。明治時代から大東亜戦争までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされました。 「天照坐皇大御神(天照大御神)」を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である「豊受大御神」を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれます。 伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいて、これは弥生時代の高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれています。また、式年遷宮が20年に一度行われます。 皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強です。神宮の神体である八咫鏡は、宮中三殿の賢所に祀られる御鏡と一体...
Read more2025.3.15 奉拝
今度どこに行こうかな?っとGoogle...
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