文化13年(1816年)徳川斉脩が水戸藩8代藩主に付いた頃から、常陸沖にイギリスの捕鯨船など異国船が頻繁に現れるようになり、海防配備が行われた。文政12年(1829年)に徳川斉昭が9代藩主に付くとさらに強化が図られ、天保3年(1832年)に海防係を設け、山野辺義観に海防御用係を命じた。更に天保7年(1836年)に助川に城を築き義観に1万石を与え海防総司に任じ居城させることとした。本来一国一城令により新たに城を築くことは禁じられていたため、佐竹時代の古城、蓼沼館の修築として幕府に願い出て建造が認められた。天保の大飢饉などの影響により工事は遅延したが、同年12月に義観は家臣247名を従えて入城した。築城工事は天保12年(1841年)までかかった。普請金は4000両。
天狗党の乱と落城 元治元年(1864年)4月、水戸藩の支藩である宍戸藩第8代藩主松平頼徳は水戸藩第10代藩主徳川慶篤の命を受け、水戸表の騒乱の制圧に乗り出した際に、心ならずも尊王攘夷派の天狗党(筑波勢)と合流することになった。幕府は同年6月に筑波勢追悼令を発出、頼徳らは那珂湊(現在の茨城県ひたちなか市)で佐幕派の諸生党と交戦になり、同年8月助川海防城第3代城主山野辺義芸に来援状を送った。義芸はこれを受けて水戸へ進軍したが、諸生党に水戸城入城を拒まれ助川海防城に戻った。諸生党から報告を受けた幕府は、助川海防城へ討伐軍を送り、山野辺軍は応戦したが、同年9月に義芸は幕府軍に投降した。城に残った残党が抵抗を続けたが、最後には城に火を放って逃走し、助川海防城は築城後わずか28年で灰燼に帰した[
日立市の最高峰の高鈴山(623.3メートル)ヘは、本公園がハイキングコースの起点にもなっており、助川山市民の森を経由して高鈴山への...
Read more一つだけユニバーサル遊具(ブランコ)が設置されています。 体幹の弱い身体障害児でも、身体を固定できるので安心して遊べます。もちろん健常児も安心して遊べます。 一人でブランコに乗れたことがうれしかったようで、何度も背中を押してとせがまれました。 どこの公園にもユニバーサル遊具があればいいのにな、と...
Read more幕末に建てられた海防城跡地の公園です。本丸と二の丸が公園になっていました。当時の建築物は現存しませんが、門の基礎石や鳩碑が残っていました。
高台にあるため公園としては日当たりがよく眺望に優れます。駐車場は見あたりませんでした。水洗の公衆トイレや小さな遊具もあって近所の家族...
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