江戸時代の紹介文によると 道灌の墓は他にもあるが、当院に埋葬したことはその証があると紹介されている。 お墓は古いものなので、当時のものではなく、修復という意味での後世による再建であるようだ。
❶【参考 新編相模風土記稿 1830年】
洞昌院 江戸時代のこの院の紹介文
開基は太田道灌。
[太田道灌墓] 五輪塔、高さ1m5㎝(3尺5寸)余り。 かたわらに古松2株。1つは囲い4m85㎝(1丈6尺)もう一つは囲い3m(1丈)ある。
考えるに石塔の様子は、当時のものではなくて、後世の建てた物であると見える。 下村浅間神社の別当の大慈寺にも、道灌の墳墓があるけれども、当院に埋葬した事はその証あり。 今も太田氏より禮奠(れいてん・死者の霊に供物をささげて祭る意味)あり。
~道灌の歩みについての説明は省略~
[朱印状の件] 天正19年(1591年)寺領3石の御朱印を賜る。 寛永6年(1629年)火災にあう。すべて焼け落ちる。 寛永19年(1642年)再び3石の御朱印を賜る。(岡田淡路守重治推挙する)
憧鐘 寛永6年の銘がある。本堂の廊下に懸けてある。
[寺寶] 鏡三面 太田道灌が所持していたと云われる。3面共に8角形にて至って薄い。裏に図が書かれている。
△鐘楼 延寶6年の鋳鐘を掛ける △開山堂 △衆寮 △稲荷神社 △白山・金比羅・秋葉・毘沙門・不動合社 △尖塔 龍光寺、正覚寺
[鎮座地] 上粕屋村 [號] 蟠龍山公所寺 (公所は寺辺の地名である) [宗教] 曹洞宗 津久井縣根小屋村功雲寺 末 [開山] 崇旭 長禄2年(1458年)3月15日卒 [開基] 太田左衛門太夫持資入道道灌 文明18年7月26日卒。法名_洞昌院心圓道灌 [中興] 陽室照寅 天文8年(1539年)7...
Read more曹洞宗寺院の洞昌院は、蟠龍山公所寺(ばんりゅうざんとうしょういんぐぞうじ)と号します。 洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌(法名洞昌院心圓道灌、文明18年卒)を開基として、崇旭(長禄二年卒)が開山となり、創建したといいます。天正19年寺領3石の御朱印状を拝領、近隣に多くの末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。太田道灌は、軍学の大家で、江戸城・川越城・岩槻城を築城したことでも有名です。 ご本尊は阿弥陀如来立像
新編相模国風土記稿によれば (上糟屋村)洞昌院 蟠龍山公所寺、公所は寺邊の字なり、と號す。津久井縣根小屋村功雲寺末、開山崇旭、長禄二年三月十五日卒、中興陽室照寅、天文八年七月二日卒、開基は太田左衛門大夫持資入道道灌、文明十八年七月二十六日卒、法名洞昌院心圓道灌、なり。釈迦を本尊とす。寺領三石の御朱印は、天正十九年賜りしが、寛永六年九月九日、火災に罹り、烏有せしを以て、十九年再び賜ふ、岡田淡路守重治推挙す。撞鐘、寛永六年の銘あり、を本堂の廊下に掛。 寺寳 鏡三面。太田道灌所有の物と云、三面共に八角にて至て薄し、裏の図左の如し。 鐘楼。延宝六年の鋳鐘を掛。 開山堂。衆寮。稲荷社。白山・金毘羅・秋葉・毘沙門・不動合社。 塔頭。 龍光寺。依法山と號す、本坊二世目堂韶存開山す、本尊勢至。 正覚寺。世尊山と號す、開山上...
Read more前から気になっており、日曜日、ふらっと立ち寄らせて頂きました。 無料駐車場、公衆トイレまで備わっており、散歩&歴史ファンで賑わっておりました。周辺には、上杉館(城)跡や、事件で亡くなった家来を弔う七人塚など、道灌に関係する史跡がかたまっておりますので、徒歩で一巡、散策すると宜しいかもしれません。...
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