いわつつこわけじんじゃ。八幡山と呼ばれる山の頂上にある。創建年代は不詳であるが、磐境(いわさか)が多数あり、古代から祭祀の地とされていた。延喜式神名帳に記載される、「陸奥国白河郡石都都古和気神社」の論社であり、この記述が書物における初見である。 永承六年(1051年)、源有光が源義家の安部一族追討の軍に加わり、康平五年(1062年)、厨川柵の戦いで、父を失い、兵の指揮を引き継ぎ、軍功を以て、従五位下安芸守に任ぜられ、石川の地を賜った。源有光は、康平六年(1063年)、この地に移って、石川有光とし、八幡山山頂の石都都古和気神社東側に、三蘆城(石川城)を築城し、以降二十五代、528年間にわたって、石川氏の居城となっていたが、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の奥羽仕置により、領地を没収された。 治暦二年(1066年)、源氏の氏神である、石清水八幡宮の分霊(八幡神·大国主命)を勧請して、石都都古和気神社に合祀した。 伝承によれば、「有光は、八幡神に日夜祈りを捧げて、城に適した場所を探していると、蘆が三本生えるところに清水が湧き出している夢を見た。翌日、南に向かい高台に登ると、石川郷の空に舞う鶴が、くわえていた松の小枝を落として去るのが見え、その場所を調べると、夢に見たとおり、蘆が三本生えており、試しに掘れば、泉が湧き出したので、城を築き、三蘆城と名付け移った」とある。 三蘆城は、石川氏と共に滅んだが、石都都古和気神社は残った。 石都々古和気神社、の社額のある、大きな石鳥居。昭和拾四年(1939)一月吉日、刻の、狛犬阿吽像。右側阿形像は、大きな目を見張り、耳の下の巻き毛がうずたかい。左前脚で玉をおさえ、すじ毛が複雑な模様になっている。身体全体に、チカラコブがあり、力がみなぎっている。左側吽形像は、右前脚の下に、玉を抱く子狛犬が逆さになっていて、すじ毛が鋭く、巻き毛がうずを巻く。耳の下の巻き毛がうずたかく、すじ毛が流れ、複雑な模様になっている。石工 小林和平。川を挟んで、参道がつづき、左側に、大きな忠魂碑。大きな台座の上に、石燈籠一対。大きな飛翔狛犬阿吽像がある。右側阿形像は、雲座が粗く彫られた、その上に、全身に、チカラコブがあり、顔が大きく、頭からのすじ毛、尾からのすじ毛が、厚みがあって流れる。透かし彫りが大胆に空けられている。左側吽形像は、大きな顔の左側と腹の下に、子狛犬がおり(三匹いる)、それぞれが別の方向を見ている。彫りが細かい。阿形像より、うしろ脚を跳ねている。耳の下の巻き毛がうずたかく、すじ毛が、笹の葉のように流れる。すじ毛が独特である。昭和五庚午年(1930)一月三十日 小林和平作(石川住の小林和平にとって、郷土の石都々古和気神社の狛犬を彫るのは、どんなに誇らしいことだったのだろう。力のこもった造形である)石だたみがあり、石段を上ると、石鳥居がある。 脇の広場に、河野広中のレリーフと石碑。渋谷直蔵の銅像が高い台座の上に、立っている。 連れ人がいたので、脇から車で上り、三芦城 狼煙台跡、の案内板。史蹟 石川城跡、の石柱。を見ながら、拝殿に至り、昭和十三年(1938)一月一日建之 沢井石工 小林和平、刻の、本当に大きな、五重の塔。石塔頭頂部のところにあった、相輪の巻き龍。大きな目、口を開いて、髭の造形、相輪への龍の巻き方、鱗が素晴らしい。目は点睛してある。今にも動き出しそうである。御神木 高野槙。流造りの本殿。拝殿に向かって左側に、鳥居があり、祖霊社、諏訪神社、多賀神社、の社三宇。 拝殿から降りると、勾玉岩や船形岩、神籬(ひもろぎ)岩などの大きな岩が、ゴロゴロしており、さすがに、神宿る古社であると思った。 磐境ー紙を祀るための神聖な場所を指し、神社の原始的な祭場を意味する。岩石を組み合わせたも...
Read more陸奥國一ノ宮 石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)。 19/9/14...
Read more福島県内にある一宮四社のうちの一社で同名の神社が棚倉町の馬場と八槻大宮にあり出雲系の神を祀る。都々古和気神社3社全てが陸奥國一宮で残る一社は岩代國一宮伊佐須美神社。
小高い山の上にあり拝殿まで急な石段が続く。一部に手すりが設置されている。途中参道に胡桃下意成神社や天狗岩などがあり神社の奥先には城跡がある。どの説明板も英語表記で海外からの参拝者向け。 また拝殿・本殿の他に神輿殿・額殿があり額殿には扉がないので常時見ることができる。
社務所は神社から少し離れていて、参道に向いて左手へ歩道を歩いていくと「石都々古和気神社社務所」の縦長の札がありその奥へ細い道を入るとある。 御朱印は社務所で授与され、『陸奥国一宮 石都々古和気神社』の御朱印のみ手書きで通常の他2種と月替わりの御朱印は書き置き和紙での対応。 2019年8月現在...
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