このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれている。狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河、和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。永曆元年(1160)十四才でこの地に流された頼朝は、治承四年(1180)三十四才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流二十年間における住居跡等の細部は詳らかではない。しかし、...
Read more▼「蛭ヶ小島」だと思っていたこの場所、「蛭が島」とも言うのですね。いずれにせよ、当時は狩野川の氾濫域だったようです。 ▼最近は、頼朝の流人生活20年のうち、こちらで起居したのは後半5年程度で、それまでは伊東(現・伊東市内)にいたのではないかとの説が有力のようです。 ▼というのは、伊豆の在庁官人では伊東祐親の方が、北条時政より上だったようで、その祐親の拠点である伊東に14歳から住んでいたようなのですが、その後、祐親の娘・八重姫と色々とあり、伊東を追い出され、北条の郷に来たのではないか。との下りです。 ▼一部の説では「①蛭が島⇒②伊東⇒③蛭が島」との話もありますが、どちらが正しいのか興味が尽きません。 ▼ちなみに伊東市内で頼朝が住んでいたであろう地域は「北の御所」という場所なのですが、残念ながら史跡としての痕跡は殆ど残っていないですね。 ▼ちなみに、挙兵時は、この「蛭が島」は山木兼隆の屋敷に近すぎることと、挙兵後の行動計画を綿密に北条時政らと会わせるために、北条屋敷があった守山の北側・守山八幡宮辺りの屋敷...
Read more平治の乱で敗れ、源頼朝が配流され、挙兵するまで過ごした流刑の地。狩野川の中州のような島だったらしい。14歳から34歳までなんと20年もいたとは、平均寿命が短かった当時としては終わった感があっただろう。しかし北条政子と結ばれたこと、北条時政が支援することにによりのちのちの武家政権の発足につながることになる。北条政子、時政親子は、流刑人で力も何もない源氏のプリンスに、すべてを捨てて乗っかったのは、ものすごい親子 であったものである。この地に立つと今は中州である面影を感じることはない。ただこの蛭ヶ島の低地から山木判官の攻め入った場所や願成就院の位置関係を感じるに、当初の頼朝公と地方豪族に過ぎない北条氏が旗揚げしたこの地が、大きな力となり歴史を動かしたのかと思うに、感じるものが多いものであります。この公園は小さく、ともすると小さな子供が遊ぶたわいもない公園に過ぎないが、歴史を感じながら近隣の史跡をめぐることにより、意味のあ...
Read more